世界を教室とする者
卒業式は、本来であれば夏の盛りに行われるはずであった。
だが、その年の坂東には幾度も大風が襲来した。
霞ヶ浦は荒れ、湖岸の道は水に沈み、鹿島や水戸から訪れる者ばかりか、下野や上野から卒業生の門出を見届けに来る家族まで足止めされた。
式の日取りは二度改められ、三度改められ、ようやく空が落ち着いた九月、霞浦兵学館最初の卒業式が執り行われることとなった。
台風の過ぎた朝、湖上には高い青空が広がっていた。
講堂の正面には、坂東藤原流の軍旗――雷霞一撃。
その左右には朱雀、青龍、白虎、玄武、四寮の旗が並んでいる。
壇上には学長のモンケを中心に、兵学館を支えた教官たちが着座した。
水戸頼治。
陳猛哲。
ニカン。
塚原卜伝。
疋田。
そして、西国への旅立ちを控えた上泉伊勢守も、教官の一人として末席に加わっていた。
上泉が兵学館の式に参加するのは、おそらくこれが最初で最後となる。
氏治は壇上から、整然と並ぶ一期生たちを見渡した。
九月に土浦城の一角を借り、兵学館が開かれた日。
彼らはまだ、座礼すら満足にできなかった。
刀を握れば肩に力が入り、算術の板書を見れば顔をしかめ、築城の実習では土まみれになって寮へ帰った。
それが五年を経たいま、それぞれが武芸、軍略、築城、行政、医術、算術、天文、外国語を身につけ、坂東各地へ戻ろうとしている。
やがて卒業証書の授与が終わると、モンケが立ち上がった。
「続いて、霞浦兵学館第一期卒業生の首席を発表する」
講堂の空気が引き締まった。
「首席――館林」
名を呼ばれた館林が、玄武寮の列から立ち上がった。
その手には一冊の厚い冊子と、何枚もの大判の地図が抱えられている。
壇上へ進んだ館林は、氏治の前にそれらを差し出した。
表紙には、こう記されていた。
『坂東夜空探訪地図』
広げられた地図には、土浦、鹿島、水戸、宇都宮、館林、前橋など、坂東各地の山河と街道が描かれていた。
その上には、土地ごとに見える夜空が重ねられている。
北の方角を示す星。
季節ごとに姿を現す星。
山の稜線から昇る位置。
夜半の移動。
霞ヶ浦や利根川の船上から見た星の並び。
氏治は地図を見下ろし、尋ねた。
「夜空を楽しむために作ったものか」
「それもございます」
館林は答えた。
「ですが、地上の目印は、夜になれば見えなくなります」
「ならば、消えぬ空の目印を使えばよいと考えました」
館林の指が、地図に記された北の星を示す。
「雲さえなく、星が見えるならば、夜でも方角を失いません」
「この地図と星の動きを覚えれば、見知らぬ土地にあっても、おおよその位置を知ることができます」
館林は顔を上げた。
「星さえ見えれば、軍は夜間行軍ができます」
講堂から、息を呑む音が聞こえた。
それは単なる天文の記録ではなかった。
敵が休んでいる夜に峠を越える。
灯火を使わず、暗闇の中で部隊を進める。
離れた軍勢が、夜明け前に同じ場所へ集結する。
坂東の夜を、そのまま軍道へ変える研究であった。
氏治は地図を閉じた。
「首席に異論はない」
館林が頭を下げる。
「ただし、この書は本日をもって禁書とする」
講堂がどよめいた。
館林も驚き、顔を上げる。
氏治は地図の表紙へ手を置いた。
「価値がないためではない」
「価値がありすぎるためだ」
「これは坂東の者に夜の道を与える。だが敵の手へ渡れば、坂東の夜もまた敵の道となる」
氏治は水戸頼治へ命じた。
「原本は兵学館と見聞方で管理せよ。無断の写本を禁じ、閲覧できる者も定める」
「承知いたしました」
館林はしばらく自らの書を見つめた後、深く一礼した。
「首席の研究が、兵学館最初の禁書となるとはな」
氏治が笑うと、緊張していた講堂にも笑いが広がった。
モンケが続ける。
「次席は二名」
「結城朝基」
「宇都宮朝綱」
兄弟の名が呼ばれた。
宇都宮家へ養子に入った兄の朝綱と、結城家を継ぐ弟の朝基が並んで壇上へ上がる。
二人の卒業研究は、明と朝鮮の医書、本草書を翻訳し、坂東に自生する草木と照らし合わせた薬草書であった。
題を、
『明朝坂東薬草集成』
という。
そこには薬草の姿だけでなく、葉の手触り、根の匂い、花をつける季節、採取する時期、乾燥の方法、煎じ方、毒草との見分け方まで記されていた。
さらに一つの草ごとに、
明での名。
朝鮮での名。
坂東での呼び名。
日本の古典や古い記録に現れる名。
それらが並べて書かれている。
氏治は頁をめくり、朝綱へ尋ねた。
「この古名まで調べたのは、おぬしか」
「はい」
朝綱は一礼した。
「私は漢籍のみならず、日本の古典にも親しんでまいりました」
「古い歌や物語、寺社の縁起、各地に残る風土の記録にも、草木の名が記されております」
「異国の言葉をそのまま移すだけでは、坂東の者には伝わりませぬ」
「ゆえに我が国に古くからある名や用い方と照らし合わせ、坂東の者が理解できる言葉へ改めました」
陳猛哲が感心して頷いた。
「翻訳というより、異なる国の知をつなぎ合わせたのですね」
「異国の知を坂東へ根づかせることが、私の役目と考えました」
一方の朝基は、自ら山野を歩いて草を採取し、異国の薬師へ直接話を聞いていた。
氏治は朝基を見る。
「おぬしは普段の寮対抗戦では、下級生ばかりを出しておったな」
玄武寮の列から、忍び笑いが漏れた。
もともと玄武寮は人数が少ない。
算術、天文、築城、薬学、異国研究などに没頭する者が集まり、武芸を得意とする者も限られていた。
そのため朝基は、普段の試合では一年生や二年生を積極的に出場させ、自らは後ろへ下がって経験を積ませていた。
「玄武は少数でございます」
朝基は答えた。
「私一人が勝てても、寮全体が育たなければ後が続きませぬ」
「ゆえに普段は下級生を出し、玄武全体の底上げを図りました」
氏治は頷いた後、笑みを浮かべた。
「では、なぜ年末の氏治杯だけは、あれほど勝ちに執着した」
講堂から一斉に笑いが起こった。
朝基も、少し気まずそうに頭をかいた。
「氏治杯で優勝した者には、翌年の夏休み、異国へ渡る褒美がございましたので」
再び笑いが広がる。
氏治杯の勝者には、鹿島衆の交易船へ乗り、夏の間、朝鮮、明、琉球、ルソンなどを訪れる権利が与えられていた。
朝基にとって、それは金銀よりも価値のある褒賞であった。
「普段は下級生を育てる」
朝基は続けた。
「そして年末の氏治杯だけは、玄武の総力を集めて勝ちにいく」
「翌夏、異国で研究するためでございます」
朝綱が隣で苦笑した。
「弟は一年をかけて下級生を育て、年末になると、その育てた者たちを率いて本気で勝ちにきました」
「兄上も、渡航が決まれば誰より喜んでおられたではありませぬか」
「私は漢文を読むために同行したのだ」
「異国の料理も、ずいぶん研究されておりましたが」
兄弟の応酬に、上泉まで口元を緩めた。
朝基は笑いを収めると、静かに兄を見た。
「ですが、私一人では限界がございました」
「現地へ行き、人から話を聞き、草を探すことはできます」
「しかし、明や朝鮮の古い医書を正しく読み解くには、漢文に明るい兄上の力が不可欠でした」
「兄上がおられなければ、この本は半分も完成しなかったでしょう」
朝綱も弟を見る。
「私も、おぬしが実物を持ち帰らねば、文字だけを並べた書を作るところであった」
「書を読む兄と、現地を歩く弟」
氏治が二人を見比べた。
「どちらが欠けても、この書は生まれなかったということだな」
「はい」
兄弟が揃って答える。
二人は渡航を重ねるうちに、朝鮮語とタガログ語も身につけていた。
朝基は現地の薬師や村人から直接話を聞き、朝綱はそれを記録し、漢籍や日本の古典と照合する。
兄弟が異国から持ち帰ったものは、珍しい草木だけではない。
言葉と、土地ごとの知恵であった。
氏治は『明朝坂東薬草集成』を閉じた。
「こちらは禁書とはせぬ」
館林が複雑な顔をし、講堂にまた笑いが起こった。
「兵学館の医官と薬師に内容を改めて確かめさせた後、広く出版する」
「各地の医師、寺、村役人へ配れ」
「文字を読めぬ者にも分かるよう、薬草の絵は大きくせよ」
「この書によって助かる命は、戦で敵を討つ数より多いかもしれぬ」
兄弟は深く頭を下げた。
壇上の上泉は、二人を静かに眺めていた。
武芸を学び、試合に勝ち、その褒美で異国へ渡る。
異国の言葉を覚え、知識を持ち帰り、一冊の書として人々へ広める。
兵学館で教えられたものは、もはや戦の技だけではなかった。
卒業式が終わろうとした時、モンケは再び立ち上がった。
「最後に、卒業生ではない者を一人紹介する」
講堂にざわめきが起こる。
一期生は全員、いま卒業証書を受け取ったはずであった。
だが、青龍寮の列から一人だけ、証書を持たぬ者が立ち上がった。
大掾幹康である。
「大掾幹康は、五年の課程を修了した」
モンケは告げた。
「されど本人より、なお学びを続けたいとの申し出があった」
大掾は壇上へ進み、氏治の前で膝をついた。
「殿」
「私は兵学館で多くを学びました」
「されど、学べば学ぶほど、自らの知らぬことの多さを思い知らされました」
「卒業ではなく、進級をお許しいただきたく存じます」
氏治はしばらく大掾を見つめた。
「何を学ぶつもりだ」
「船でございます」
大掾は答えた。
「鹿島の坂東ガレオンも、潮来を進む北浦級も、坂東の力となりました」
「されど我らは、異国の船を真似て、坂東に合う形へ直しているにすぎませぬ」
「なぜその船が海を越えられるのか」
「なぜその骨組みで波に耐えられるのか」
「どのように木を選び、乾かし、曲げ、組み合わせるのか」
「私は、それを根から学びとうございます」
氏治は頷いた。
「よかろう」
「大掾幹康の進級を認める」
講堂がどよめいた。
兵学館に、それまで存在しなかった上級課程が生まれた瞬間であった。
しかし氏治は、すぐに続けた。
「ただし、次の教室はここではない」
大掾が顔を上げる。
氏治は一通の書状を取り出した。
そこには小田氏治の名と印があり、大掾が坂東を代表して学ぶ者であることが記されている。
さらに陳猛哲も、数通の紹介状を差し出した。
福建、華南、南洋、さらにその先の商人や技術者へ宛てた書であった。
氏治は命じる。
「まず海を渡れ」
「イスラムの港へ行き、造船所を見よ」
「そこからポルトガル、イスパニア、フランスへ向かえ」
「大きな港だけではない」
「小さな船大工の工房へ入り、職人のそばで働け」
「見学するだけでは足りぬ」
「槌を持て」
「鋸を引け」
「木屑にまみれ、指を切り、船底へ潜れ」
「船を語る者ではなく、船を造れる者となって帰れ」
大掾は両手をつき、頭を下げた。
「どれほどの期間をいただけますか」
氏治は即座に答えた。
「五年は帰るな」
講堂が静まり返る。
「早く帰ることを功とはせぬ」
「学ぶために行くのだ。帰るために行くのではない」
「五年で足りなければ、さらに残れ」
「十年かかっても構わぬ」
「世界は逃げぬ。焦って半端なものを持ち帰るな」
氏治は立ち上がり、大掾を見下ろした。
「大掾幹康」
「上級課程の課題を申し渡す」
「異国の船を一隻選び、その造りをすべて学べ」
「木材の選定」
「船体の構造」
「帆と索具」
「舵」
「積荷の配置」
「船員の役割」
「修理の方法」
「港と造船所の仕組み」
「そして、それをそのまま坂東へ持ち帰るのではない」
「霞ヶ浦、利根川、鹿島灘に合う船へ作り直せ」
「おぬしの卒業論文は書物ではない」
氏治は大掾の肩へ手を置いた。
「おぬし自身の手で造った、新しい坂東船だ」
大掾は震える息を吐いた。
それから、深く頭を下げた。
「必ずや」
「坂東の海と川を一つにつなぐ船を造り、帰ってまいります」
「違う」
氏治は静かに首を振った。
「必ず帰ると約束するな」
「学び終えてから帰れ」
大掾は一瞬、目を見開いた。
やがて力強く頷く。
「承知いたしました」
壇上の上泉は、そのやり取りを黙って見ていた。
兵学館を卒業して坂東へ戻る者。
研究を出版し、人々へ知を広める者。
軍や奉行所へ入り、国を支える者。
そして、卒業せず、世界そのものを教室として学び続ける者。
道は一つではない。
守った形を破り、やがて自らの道を探して離れていく。
上泉は、氏治に教えた言葉を思い出すように、わずかに目を細めた。
こうして霞浦兵学館最初の卒業式は終わった。
首席の書は禁書となり、
次席の書は坂東中へ広められ、
ただ一人の進級生は、五年の課題を与えられて海の彼方へ送り出されることとなった。
兵学館の最初の五年は、この日で終わった。
だが、彼らの学びは、この日からようやく坂東の外へ広がり始めたのである。




