形を越える
上泉は、なおも巡の稽古を続けた。
ただし、もう教えはしない。
「上段。」
「下段。」
そう声を掛けていたのも最初だけだった。
ある日から、何も言わずに斬り込んでくる。
氏治は相手の肩の動き、腰の入り、足音、息遣いだけを頼りに受けるしかない。
乾いた音が響く。
打ち合うたびに、上泉の太刀は速くなる。
一歩が深くなり、一撃は重くなる。
昨日受けられた太刀が、今日は遅れる。
今日追いついたと思えば、明日はさらにその先へ行かれる。
しかも順番はない。
上段から来ると思えば、その半ばで刃筋を変え下段へ流れる。
左へ払うと見せて踏み込みだけ変える。
間合いを詰めたかと思えば、一歩退いて誘う。
氏治は何度も打たれた。
肩。
胴。
籠手。
木刀が身体を叩くたびに鈍い音が兵学館へ響く。
それでも上泉は止めない。
巡。
巡。
ただ巡だけを繰り返す。
冬の冷気が張りつめる頃には、その速さはもはや見取り稽古の日とは比べものにならなかった。
氏治は、息を切らしながら木刀を構える。
上泉は静かに立つ。
合図はない。
構えも崩さない。
次の瞬間には木刀が目前まで迫っている。
考えた。
受け損ねる。
考えなかった。
今度は身体だけが勝手に動いた。
その瞬間、氏治ははっとした。
――違う。
これは、もう形ではない。
形を覚える稽古ではない。
決められた順をなぞる稽古でもない。
敵のわずかな動きを見抜き、迷う前に身体が応える。
形を身体へ溶かし込むための稽古。
いや、それすら違う。
形そのものを忘れ、形に縛られぬための稽古だった。
上泉は初めて口元を緩める。
「気付いたか。」
氏治は荒い息のまま頷いた。
「巡とは、形を覚えることではございませぬ。」
「……形を忘れることでございますか。」
上泉は静かに木刀を下ろした。
「ようやく入口だ。」
その一言だけが、冬の兵学館に静かに響いた。




