第五之形 巡(めぐり)
春の訪れとともに、兵学館の庭には若草が芽吹き始めていた。
冬の間、氏治はただひたすら木刀を振り続けた。
第一之形。
第二之形。
第三之形。
第四之形。
そして、それぞれの裏。
上泉伊勢守は順番など決して決めなかった。
ある日は第一から。
ある日は第四から。
ある日は表から。
ある日は裏から。
氏治はそのたびに受け、返し、応じ、また返す。
いつしか順番を考えることはなくなっていた。
身体が先に動く。
その日の朝。
上泉は木刀を持って氏治の前へ立った。
「氏治。」
「はい。」
「今日で第一から第四までの稽古は終わる。」
氏治は驚いた。
「終わる……のでございますか。」
上泉は静かに首を振る。
「違う。」
「ようやく始まる。」
そう言って木刀の切っ先で地面に円を描いた。
「お前は第一から第四までを四つの形と思っている。」
「表と裏を合わせれば八つと思っている。」
「だが、それは違う。」
氏治は黙って耳を傾けた。
「本来、形は一つしかない。」
「それが――」
上泉はゆっくりと言った。
「第五之形、巡。」
春風が二人の間を吹き抜ける。
「第一之形は巡の始まりを学ぶため。」
「第二之形は巡の変化を学ぶため。」
「第三之形は左右の理を学ぶため。」
「第四之形は巡を閉じ、再び始まりへ帰る理を学ぶため。」
「そして表は受けの理。」
「裏は、その返しに応じる理。」
「これらは皆、巡を教えるために分けたものに過ぎぬ。」
氏治は目を見開いた。
「つまり……。」
「第一から第四までがあるのではない。」
「巡が先にあり、それを分けて教えていただけだったのですね。」
上泉は静かにうなずく。
「その通りだ。」
「いきなり巡を教えても、人は覚えられぬ。」
「だから細かく砕き、一つずつ身体へ入れる。」
「そして最後に、元へ戻す。」
上泉は正眼に構えた。
「巡れ。」
その一言だけだった。
上泉が真っ向から斬り下ろす。
氏治は上受け。
袈裟へ返す。
上泉はその袈裟を受け流し、突きを返す。
氏治は応じる。
下段。
左。
右。
攻め。
受け。
返し。
応じ。
どこまでが第一で、
どこからが第四なのか。
どこまでが表で、
どこからが裏なのか。
もう誰にも分からない。
ただ一つの流れだけが続いていた。
やがて最後の一太刀が終わる。
二人は自然に正眼へ戻った。
氏治は周囲を見回し、息をのんだ。
最初に立っていた場所。
最初と同じ間合い。
最初と同じ向き。
寸分違わず、そこへ戻っていた。
上泉もまた同じ位置に立っている。
「巡とは、始まりへ帰る形だ。」
「歩幅が乱れれば帰れぬ。」
「間合いが乱れれば帰れぬ。」
「姿勢が乱れれば帰れぬ。」
「心が乱れても帰れぬ。」
氏治は静かにうなずいた。
上泉はさらに続ける。
「そして、この形は一人では学べぬ。」
「表は受けから始まる。」
「受けるには、打ち込む者がおらねばならぬ。」
「裏もまた、返す者がいて初めて成り立つ。」
「ゆえに、この形は初めから教わることを前提として作られている。」
「師が打ち。」
「弟子が受け。」
「弟子が返し。」
「師が応じる。」
「そうして巡は、人から人へ受け継がれる。」
氏治は深く頭を下げた。
「では、巡ができれば……。」
上泉は力強くうなずく。
「一人前だ。」
「巡を乱さず、一巡して始まりの立ち位置へ帰る。」
「それができれば、形は身体に入ったということだ。」
「ここから先は、師が技を教えることはない。」
「敵が、お前を育てる。」
その日から稽古は変わった。
「第一之形。」
「第二之形。」
そんな声は聞かれなくなった。
上泉が告げるのは、ただ一言。
「巡れ。」
ある日は氏治が一人で巡る。
ある日は上泉が相手となる。
ある日は表から。
ある日は裏から。
ある日は第四から始まり、第一へ戻る。
順は決まらない。
だが流れは決して途切れない。
一巡すれば、必ず始まりの立ち位置へ帰る。
帰れば、また巡る。
終わることのない一つの形。
それが、上泉伊勢守が最後の弟子へ授けた奥義――
第五之形・巡であった。




