転への一歩
翌日は、上泉の言葉どおり休みであった。
兵学館の稽古場にも人影はなく、夏の朝だけが静かに流れている。
それでも氏治は、いつもの時刻に目を覚ました。
「……体が勝手に動くな。」
苦笑しながら木刀を手に取り、兵学館へ向かう。
休みだからといって、一日木刀を握らない方が落ち着かなかった。
稽古場へ足を踏み入れる。
乾いた木刀の音が聞こえた。
カン――。
カン――。
朝日に照らされた演習場の中央で、一人の老人が静かに木刀を振っている。
上泉伊勢守だった。
第五之形・巡。
途切れることなく巡り続けるその動きは、水が流れるように自然で、一切の無駄がない。
氏治は邪魔をせぬよう、少し離れた場所で見守った。
やがて上泉は木刀を収め、振り返る。
「来ると思った。」
氏治は頭を下げる。
「……試されたのでございますか。」
上泉は小さく笑った。
「いや。」
「お前は真面目だから来ると思っただけだ。」
「そうでなければ、一年でここまで強くはなれぬ。」
氏治は照れくさそうに笑った。
「休みだと分かっていても、木刀を握らぬと落ち着かないのです。」
「それでよい。」
上泉はうなずく。
「武とは、誰かに言われてするものではない。」
「己が求めるから歩むものだ。」
氏治はしばらく黙っていたが、やがて深く一礼した。
「先生。」
「何だ。」
「今日は見取り稽古をさせてください。」
「先生の剣を、ただ見て学びとうございます。」
上泉は氏治の顔を見つめる。
やがて穏やかに笑った。
「見取りか。」
「よかろう。」
そう言うと再び木刀を構えた。
静かに巡が始まる。
しかし、氏治はすぐに違和感を覚えた。
巡では、受けから始まる。
ところが上泉の剣は違った。
上段に構えたかと思えば下段へ。
下段から平眼。
平眼から片手構え。
構えが水のように変わる。
受ける前に相手を誘い、攻めさせ、その起こりに応じている。
巡とは違う。
舞い終えた上泉へ、氏治は思わず尋ねた。
「先生。」
「今のは……巡ではございません。」
「巡は受けから始まる形ではありませんでしたか。」
上泉は笑った。
「よく見ておる。」
「今のは巡ではない。」
「揺だ。」
「揺……。」
「巡は守る形。」
「揺は、その守を破るための形だ。」
上泉は木刀を構え直した。
「よいか、氏治。」
「巡では受けることを学んだ。」
「だが実戦では、受けることだけが正解ではない。」
「敵に応じ、最も理にかなう動きを選ぶ。」
そう言うと、上泉は一つずつ技を示した。
真っ向の斬撃を受ける。
そのまま刃を流し、下から切り上げる。
返す刃で真っ向へ切り下ろす。
「上段は、受け、切り上げ、切り下げる。」
次は下段。
今度は受けない。
刃を合わせ、そのまま円を描くように相手の太刀を巻き上げる。
切っ先が浮いた瞬間、喉元へ鋭く突きを放つ。
「下段は受けぬ。」
「刃を制し、そのまま突く。」
左払い。
半歩だけ身をかわす。
そのまま肩から体を当て、相手の体勢を崩し、首筋へ一閃。
「左払いは、かわし、体を当て、首を制す。」
最後は右払い。
相手が払いに移ろうとする、その起こり。
柄で相手を組み止めるようにはじき、体勢を崩す。
袈裟へ斬る。
返す刃で胴を払う。
「右払いは、機微を制する。」
「柄で制し、袈裟、そして胴。」
氏治は息をのむ。
巡と同じ理。
だが応じ方がまるで違う。
上泉は木刀を納めた。
「今日は休みなのに来た褒美だ。」
「揺を授けよう。」
「巡を身体に刻んだ者だけが、揺を学べる。」
「揺とは、守を破るための形。」
「形を崩すのではない。」
「形に縛られぬための形だ。」
夏の朝日が二人を照らしていた。




