第三の転移
宇都宮城を訪れてから、五日が過ぎた。
治彦の日常は、何事もなかったかのように戻っていた。
朝、会社へ向かい。
仕事を終え、帰宅する。
ただ、それだけだった。
だが一つだけ違う。
車の助手席にも。
仕事帰りのコンビニでも。
自宅のリビングでも。
もう、亡霊氏治はいなかった。
「……。」
ふと何か話しかけようとして、相手がいないことに気付く。
「成仏……したのかな。」
そう呟いてみる。
しかし、あの時の氏治の表情が頭から離れない。
『違う……これは成仏ではない。』
確かにそう言った。
ならば、あれは何だったのか。
答えは見つからないまま、日だけが過ぎていった。
その夜。
夕食を終えた治彦は、何気なくテレビの電源を入れた。
画面に映し出された番組タイトルを見て、思わず息を呑む。
『あなたが選ぶ! 戦国武将ランキング』
「……この番組。」
すべての始まりだった。
何気なく見始めたこの番組で、治彦は八田知家という武将に興味を持った。
その帰りに小田城跡歴史資料館へ立ち寄り、不思議な転移に巻き込まれた。
知家。
朝久。
二つの時代を駆け抜けた。
そして、氏治は消えた。
番組は軽快な音楽とともに順位を発表していく。
「続いては、戦国を代表する名将です!」
画面には、
武田信玄。
上杉謙信。
北条氏康。
名だたる英雄たちが次々と映し出される。
その名前だけが、不思議と耳に残った。
ドクン。
胸が脈打つ。
そして。
司会者が声を張り上げた。
「戦国時代最大の革命児――」
画面いっぱいに映し出された肖像画。
織田信長。
その瞬間。
治彦は、以前の氏治との会話を思い出した。
歴史番組を見ていた時だった。
信長が映ると、氏治は珍しく真剣な表情になった。
「"おだ"は"おだ"でも、こちらは織る田か。」
「わしは小さき田の小田。」
「同じ"おだ"でも、面白いものじゃ。」
治彦は笑った。
「字が違うだけじゃないですか。」
氏治も笑った。
「そうじゃな。」
少し間を置いて、ぽつりと呟いた。
「……だが、一度会ってみたい男ではある。」
その言葉だけが、今になって妙に胸へ引っ掛かる。
画面の信長を見つめていると、不意に違和感を覚えた。
「……?」
信長の顔が揺れた。
テレビの不調かと思った。
違う。
肖像画の顔が、水面のように波打ち、ゆっくりと崩れていく。
目が。
鼻が。
口元が。
溶けるように形を失っていく。
「なっ……!」
治彦は立ち上がった。
崩れた顔が、別の人物の輪郭を描き始める。
穏やかな目。
優しい笑み。
亡霊氏治だった。
「氏治公!」
氏治は何も言わない。
ただ、じっと治彦を見つめる。
その唇だけが静かに動いた。
「治彦――」
声は聞こえない。
次の瞬間。
画面に無数の亀裂が走った。
パリン。
ガラスが割れるような音。
世界そのものが砕け散る。
治彦は思わず目を閉じた。
やがて静けさが戻る。
恐る恐る目を開く。
テレビはいつも通り番組を映している。
司会者が笑いながら順位を発表していた。
「……幻覚?」
そう呟いた時だった。
テレビの前に、小さな人影が立っていた。
五、六歳ほどの幼子。
小袖姿に袴。
腰には、小さな木剣。
治彦は息を呑む。
その顔は、幼い頃の氏治によく似ていた。
いや。
似ているのではない。
その子は、幼き小田氏治だった。
幼子は木剣を握り直し、じっと治彦を見つめる。
その瞳には、子供とは思えない静かな光が宿っていた。
やがて、小さく口が動く。
「…………。」
声は聞こえない。
それでも治彦には分かった。
その唇は、確かにこう告げていた。
「来て。」
その瞬間だった。
部屋が大きく揺れる。
テレビも。
壁も。
天井も。
世界そのものが水面のように波打ち始めた。
治彦は思わず幼子へ手を伸ばす。
「君は……!」
眩い光が部屋を包み込む。
そして世界は、静かに崩れ落ちた。




