礼と足 ― 上泉の教え
礼と足 ― 上泉の教え
夏の終わり。
兵学館の演武場には、朝早くから静かな声が響いていた。
「座礼。」
氏治は膝を折り、静かに頭を下げる。
「立礼。」
立ち上がり、一礼する。
上泉はただ頷く。
それだけで次へ移る。
毎朝、最初の稽古は礼で始まった。
座り方。
立ち方。
礼の角度。
呼吸。
視線。
何度も何度も繰り返す。
「礼とは相手を見るためにするものだ。」
「頭を下げても、心まで伏せるな。」
上泉の言葉は少ない。
しかし氏治は一つひとつを胸に刻んでいった。
礼が終わると、すぐに足運びである。
前へ。
後ろへ。
右へ。
左へ。
ただ歩く。
最初は何も持たない。
やがて稽古用の真剣を持たされても、やることは変わらなかった。
前。
後ろ。
右。
左。
刀を振ることはない。
ひたすら歩く。
上泉は黙って見ている。
力みを見つけるたびに、
パン。
肩を軽く叩く。
「肩の力を抜け。」
また歩く。
パン。
「腹に力を入れろ。」
氏治は息を整え、歩き続ける。
また、
パン。
「頭を上下させるな。」
さらに、
パン。
「平行に進め。」
上泉は決して怒鳴らない。
叩くのも軽くだ。
それでも氏治には、その一打で身体のどこが乱れたのかがすぐに分かった。
来る日も来る日も同じだった。
秋風が吹いても。
紅葉が色づいても。
朝霜が降りても。
稽古は変わらない。
礼。
足運び。
礼。
足運び。
前へ。
後ろへ。
右へ。
左へ。
兵学館の生徒たちは不思議そうに眺めていた。
「あれだけで終わるのか。」
「刀を振っているところを見たことがない。」
疋田は静かに笑う。
「振る前に、立つことを教えておる。」
塚原卜伝も腕を組み、小さく頷いた。
「歩けぬ者は斬れぬ。」
「上泉殿らしい教えよ。」
氏治は一度も不満を口にしなかった。
ただ黙々と礼をし、歩き続ける。
やがて夏は過ぎ、秋が終わる。
冬の冷たい風が演武場へ吹き込み、吐く息が白く染まる頃――。
年の瀬が近づいていた。
夏から始まった稽古は、年末を迎えてもなお変わらない。
礼。
そして足運び。
それだけを、氏治は毎日繰り返していた。
しかし、その歩みは夏とは違っていた。
足音は消え、身体の上下動も少なくなり、刀を持ったままでも風に流れるように静かに前後左右へ動けるようになっていた。
上泉はその姿を見つめ、小さく頷く。
「ようやく、足が剣らしくなってきたな。」
その一言だけが、この半年近い稽古で氏治に贈られた、何より大きな褒め言葉だった。




