最後の門弟
兵学館の練兵場には、雨音だけが静かに響いていた。
木の香りが漂う道場の中で、小田氏治は上泉伊勢守へ深く頭を下げる。
「伊勢守。」
「お願いがあります。」
上泉は穏やかな眼差しで氏治を見つめた。
「申されよ。」
「私は、あなたから学びたいのです。」
その一言に、上泉はわずかに目を細めた。
「殿が、でございますか。」
「はい。」
氏治は真っ直ぐに答えた。
「甲斐で私は、那須と館林、二人の将を失いました。」
「勝ちは得ました。しかし、その勝利は二人の命の上にありました。」
「坂東では今、新たな命が生まれています。田畑は広がり、町は栄え、子らの笑い声が聞こえるようになりました。」
「私は、その命を守れる将になりたい。」
「もう二度と、あのような無理な戦を家臣に強いることのないよう、自らを鍛えたいのです。」
上泉は静かに頷いた。
「殿には、一つの才がございます。」
「十のうち一しかない勝機を、己の才で手繰り寄せる力。」
「それは、多くの武将が望んでも持ち得ぬ天賦の才。」
そして静かに続けた。
「しかし、那須殿や館林殿を救いたいのであれば、それでは足りませぬ。」
「十に一の勝ちではなく、十に五は己の実力で勝ちを掴める将にならねばならぬ。」
氏治は深く頭を下げた。
「だからこそ、学ばせてください。」
しばらく雨音だけが二人の間を流れた。
やがて上泉は兵学館の校舎へ目を向ける。
「わしは九月には伊勢へ赴き、その後は京へ向かうつもりでした。」
「その志は今も変わりませぬ。」
氏治は静かに頷く。
「承知しております。」
「剣の道に終わりはない。」
「わしもまた、生涯修行の身。」
そう言うと、上泉は柔らかく笑った。
「ですが、一つだけ心残りがございました。」
「兵学館の一期生です。」
「幼さの残る顔で入学してきたあの子らも、この九月で四年生。」
「卒業まで、あと二年。」
「四年と五年を終えれば、兵学館最初の卒業生として、それぞれの道へ旅立っていきます。」
その眼差しは、どこか父が子を見るようでもあった。
「正直に申せば……。」
「あの者たちが巣立つ姿だけは、この目で見届けたいと思っておりました。」
氏治は何も言わず、その言葉を待つ。
上泉はゆっくりと向き直った。
「旅立ちは二年延ばしましょう。」
「一期生が卒業する、その日まで。」
氏治の表情が和らぐ。
しかし上泉は続けた。
「もっとも、わしも年です。」
「すべての門弟を見るのは、若き日のようには参りませぬ。」
塚原卜伝が腕を組み、静かに笑う。
「それは誰しも同じよ。」
疋田豊五郎も頷いた。
「兵学館には我らがおります。」
上泉は二人へ一礼した。
「卜伝殿、疋田。」
「他の門弟たちは、お二人にお任せしたい。」
二人は迷わず頷く。
「承知した。」
上泉は再び氏治へ向き直る。
「その代わり、この二年。」
「わしは殿ただ一人を鍛えます。」
「二年で、一人の将として仕上げる。」
氏治は息を呑んだ。
上泉の眼差しには、旅立ちを前にした老剣豪の覚悟が宿っていた。
「ただし、条件があります。」
「兵学館では、殿ではありませぬ。」
「わしの門下では、一人の門弟です。」
「身分は忘れていただく。」
「稽古に容赦はせぬ。」
「叱りもする。」
「掃除も雑務もしていただく。」
「手加減も遠慮も、一切いたしませぬ。」
氏治は迷うことなく深く一礼した。
「望むところです。」
「兵学館では、一人の門弟・氏治として学ばせてください。」
上泉は静かに頷いた。
「よろしい。」
「ならば今日より二年。」
「殿ではなく、門弟・氏治。」
「そして――」
上泉は穏やかに笑った。
「わしにとって、最後の弟子です。」
その言葉に、卜伝も疋田も静かに微笑んだ。
雨はなお降り続いていた。
その日、兵学館の練兵場で、小田氏治は一国の当主ではなく、老剣豪・上泉伊勢守最後の門弟となったのである。




