北浦迎賓館 ――静かな祝宴
夕餉が終わる頃には、北浦は茜色から藍色へと移り変わり、湖面には淡い月明かりが映り始めていた。
迎賓館の庭を吹き抜ける風は心地よく、昼間の視察の疲れを静かにさらっていく。
侍女が二人の姫へ一礼した。
「お湯の支度が整いました。」
早川殿と黄梅院は顔を見合わせ、小さく微笑む。
「それでは、少し失礼いたします。」
「殿も、ごゆっくりお休みくださいませ。」
二人は侍女に伴われ、館の奥に設けられた姫君用の露天風呂へ向かった。
氏治はその姿を見送ると、縁側へ腰を下ろした。
そこへ真壁幹久と幹永兄弟が静かに現れる。
二人は盃を手にしながら、氏治の前へ座した。
夜風が三人の間をゆっくりと吹き抜ける。
しばらくは誰も口を開かなかった。
虫の音と、遠くから聞こえる湯の流れる音だけが静かに響いている。
やがて幹久が盃を置き、深く頭を下げた。
「殿。」
「実は、この迎賓館を造った一番の理由がございます。」
氏治は首を傾げる。
「理由?」
幹永も静かに頭を下げた。
「はい。」
「殿に、休んでいただきたかったのでございます。」
氏治は思わず二人を見つめた。
幹久は穏やかに続ける。
「殿は幼き頃より、武芸に励み、政に励み、戦となれば誰よりも前へ出られました。」
「土浦も、兵学館も、北浦も。」
「いつも国のことばかり考えておられます。」
幹永が苦笑する。
「家臣としては嬉しいことですが……。」
「時には、一人の人として肩の力を抜いていただきたい。」
「そのような場所を、兄弟で造りたかったのでございます。」
氏治は言葉を失った。
迎賓館の造り。
露天風呂。
静かな庭園。
湖を望む縁側。
そのすべてが、自分をもてなすためだけではなく、「休んでほしい」という家臣たちの願いだったことを、今になって知った。
幹久は盃を持ち上げる。
「そして、もう一つ。」
「このたびのご婚儀、誠におめでとうございます。」
幹永も続ける。
「早川殿、黄梅院様という良きご縁を迎えられましたこと、兄弟とも心より嬉しく思っております。」
「戦ばかりではなく、家族と過ごす時間も大切になさってくださいませ。」
氏治はゆっくりと盃を持ち上げた。
「……ありがとう。」
その一言に、様々な想いが込められていた。
幼い頃から剣を教えてくれた兄のような存在。
命を預け合った戦友。
そして今は、自分の幸せまで願ってくれる家臣。
氏治は静かに笑う。
「私は、本当に良い家臣に恵まれた。」
幹久は首を振った。
「違います。」
「我らが良き主君に恵まれたのでございます。」
三人は盃を重ねた。
澄んだ音が夜の迎賓館に静かに響く。
戦場では決して見せることのない穏やかな時間が、北浦の夜とともにゆっくりと流れていった。




