北浦迎賓館 ――初夏の安らぎ
ライティング
北浦迎賓館 ――初夏の安らぎ
六月、水無月。
霞ヶ浦から吹く風は初夏の香りを運び、青々とした水面には穏やかな陽光がきらめいていた。
北浦一帯の整備がひとまず完成したとの知らせを受け、小田氏治は視察へ向かうことを決める。
今回は政務ではない。
氏治は二人の姫――北条家から嫁いだ早川姫と、武田家から迎えた黄梅院にも「せっかくだから北浦を見てほしい」と声を掛け、一行は土浦を発った。
まず向かったのは霞ヶ浦の船着場だった。
坂東船団の大型船へ乗り込むと、船は静かに湖面を滑り始める。
湖とは思えぬ広大な景色に、早川姫は思わず身を乗り出した。
「本当に海のようですね!」
黄梅院も穏やかに湖面を眺める。
「波も静かで、美しいところです。」
湖上では商船や漁船、坂東船団の巡視船が行き交い、整備された水運の賑わいが一目で分かった。
やがて船は潮来へ到着する。
新しい桟橋には蔵屋敷が並び、人足たちが忙しく荷を運んでいた。
その船着場で二人の武将が深々と頭を下げる。
「お待ちしておりました、殿。」
真壁幹久。
そして弟の幹永である。
氏治が兄弟の後ろへ目を向けると、大きな水牛たちがゆったりと並び、木造の立派な車を曳いていた。
幹永が笑顔で胸を張る。
「北浦自慢の水牛車にございます。」
早川姫は目を丸くした。
「牛が車を引くのですね!」
黄梅院も水牛の大きな角を見つめ、優しく微笑む。
「とても穏やかな目をしております。」
氏治は水牛の首筋を軽く撫でながら頷いた。
「ようやく、この土地にも馴染んだようだ。」
一行は水牛車へ乗り込む。
車は整備された街道をゆっくりと進み始めた。
道の両脇には青々とした牧草地が広がり、水牛や韓牛、坂東牛がのどかに草を食み、遠くには湯気を立ち上らせる温泉施設や新しい牛舎が見える。
農夫たちは畑を耕し、子どもたちは水路で遊び、穏やかな笑い声が初夏の風に乗って聞こえてきた。
「まるで別の国へ来たようですね。」
治彦が感心すると、幹久は静かに笑う。
「まだ始まりにござる。」
「数年後には、さらに人が集まる町となりましょう。」
やがて小高い丘へ辿り着く。
そこには白壁と黒瓦が美しい一軒の館が建っていた。
館の背後には北浦を一望する露天風呂が設けられ、湯気がゆっくりと空へ昇っている。
幹永が誇らしげに言った。
「こちらが北浦迎賓館にございます。」
「殿と姫君方のためだけに建てた宿でございます。」
早川姫は思わず声を上げた。
「素敵……。」
黄梅院も庭園を眺めながら目を細める。
「戦国の世とは思えないほど静かな場所ですね。」
館へ入ると、小田城や土浦城とはまるで空気が違っていた。
警備は必要最小限。
廊下に立つ警護の者も少なく、庭からは鳥のさえずりと風に揺れる木々の音だけが聞こえる。
戦や評定とは無縁の、穏やかな時間が流れていた。
早川姫は縁側へ腰を下ろし、北浦を眺める。
「静かですね。」
氏治も隣へ腰を下ろした。
「ああ。ここは皆が肩の力を抜いて過ごせる場所にしたかった。」
黄梅院も庭を見渡し、小さく微笑む。
「こうして景色を眺めるだけで心が落ち着きます。」
やがて大広間へ案内されると、北浦や笠間、真壁で採れた食材をふんだんに使った料理が並んだ。
香ばしく焼かれた川魚。
柔らかな牛肉。
旬の野菜。
温かな汁物。
そして北浦で採れた乳を使った新しい料理も添えられている。
和やかな食事が続く中、真壁幹久が静かに杯を置いた。
「殿。」
「一つ、ご報告がございます。」
氏治も箸を置く。
「どうした。」
幹久は少し照れくさそうに笑った。
「このたび、妻が子を授かりました。」
氏治の表情がぱっと明るくなる。
「それはめでたい!」
「おめでとう。」
幹久は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
すると隣に座る幹永が思わず笑った。
「兄上だけではございません。」
皆の視線が集まる。
幹永も姿勢を正した。
「実は私も、妻が子を授かりました。」
一瞬静まり返ったあと、大広間は笑い声に包まれた。
「兄弟そろってか!」
治彦も思わず吹き出す。
「今日は祝い事ばかりですね。」
早川姫は嬉しそうに手を合わせた。
「本当におめでとうございます。」
黄梅院も穏やかに微笑む。
「どうか母子ともに健やかでありますように。」
幹久は嬉しそうに頷いた。
「まだ生まれるまでは分かりませぬが、無事に生まれてくれることだけを願っております。」
幹永も続ける。
「親になるというのは、不思議なものですな。今まで以上に、この北浦を守らねばと思うようになりました。」
氏治はゆっくりと盃を手に取り、二人へ向けた。
「新しい命は家の宝であり、坂東の宝でもある。」
「二人とも、本当におめでとう。」
「無事に生まれた折には、私も祝いに駆けつけよう。」
兄弟は顔を見合わせ、深く頭を下げた。
「ありがたき幸せ。」
戦や政の話ではない。
家族の話で笑い合う。
それは、この北浦迎賓館が目指した穏やかな時間そのものだった。
館の外では初夏の風が木々を揺らし、露天風呂から立ちのぼる湯気が、ゆっくりと夕暮れの空へ溶けていった。




