梅の栞
婚儀を終えた後。
氏治は黄梅院へ静かに声を掛けた。
「黄梅院殿。」
「少しだけ、お話しできませんか。」
黄梅院は小さく頷く。
氏治は近習へ目配せした。
「しばらく、人払いを。」
「はっ。」
家臣たちは一礼し、静かにその場を離れていく。
筑波山神社の境内には、春を迎えた穏やかな風だけが流れていた。
氏治は改めて黄梅院へ向き直る。
近くで見ると、その美しさは一層際立っていた。
父を失った悲しみが、その表情に淡い影を落としている。
だが、その瞳はどこまでも澄み、知性を宿していた。
吸い込まれそうなほど静かな、美しい麗人である。
氏治は少し照れたように笑う。
「実は。」
「渡したいものがあります。」
境内の端には一本の梅が咲いていた。
氏治は枝を傷めぬよう、そっと一輪だけ花の付いた小枝を折る。
懐から小さな和紙を取り出し、その場で丁寧に花を挟んだ。
「押し花にして……。」
「栞にしました。」
まだ出来たばかりの、素朴な栞だった。
氏治は両手で差し出す。
「黄梅院殿のお名前にちなんで。」
黄梅院は驚いたように栞を受け取る。
そっと指で梅の花に触れた。
氏治は少し西の空を見つめた。
「いつか。」
「あの墓所の周りへ梅を植えませんか。」
「毎年春になったら。」
「皆で花を見に来ましょう。」
その言葉を聞いた黄梅院は、一瞬きょとんとした。
そして、口元へ袖を添え、小さく笑う。
「ふふっ。」
その笑顔は、婚儀の間で見せたものよりもずっと柔らかかった。
氏治は首を傾げる。
「何か、おかしなことを申しましたか。」
黄梅院は笑みを浮かべたまま首を横へ振る。
「氏治様。」
「こういう時は。」
少しだけ頬を赤らめながら続けた。
「『皆で』ではなく。」
「『二人で』ですよ。」
氏治は目を丸くする。
「あ……。」
「そう、ですね。」
思わず照れて頭を掻く氏治を見て、黄梅院は今度は声を立てて笑った。
父を失ってから初めて見せる、心からの笑顔だった。
氏治もつられて笑う。
春風が二人の間を静かに吹き抜ける。
梅の香りが、どこか優しく漂っていた。
その日、筑波山神社の境内で交わされた小さな約束。
「来年の春は、二人で梅を見ましょう。」
その約束は、黄梅院の止まっていた時間を、少しだけ前へと動かしたのであった。




