春、筑波にて
三月。
まだ春浅い筑波山の麓。
筑波山神社では、人知れず一つの婚儀が執り行われていた。
参列するのは、小田家の重臣と武田旧臣のみ。
華やかな宴も、大勢の見物人もいない。
厳かで静かな婚儀だった。
新郎は小田氏治。
新婦は黄梅院。
齢は氏治より一つ年上。
本来ならば、甲斐武田家の姫として、誇り高く育った娘である。
活発で。
聡明で。
そして人を惹きつける美しい笑顔を持つ姫だったという。
しかし、この一年で全てが変わった。
父・武田晴信を失った。
故郷を失った。
家臣たちは離散し、甲斐を去ることになった。
もっとも、氏治が武田家臣団を引き受けると決めるや否や、北条氏へ早馬を走らせたことで、黄梅院や武田家の人々は速やかに保護された。
その後は小田領内の寺へ移され、不自由なく暮らしていた。
だからこそ、恨み切ることもできなかった。
父を討った相手でありながら、自分たちを守ってくれたのもまた小田氏治だったからである。
それでも。
心の奥底には、消えない思いが残っていた。
(父上の……仇。)
その言葉だけは、どうしても消えなかった。
婚儀を終え、黄梅院はそっと隣を見る。
そこに立っていたのは、恐ろしい武将ではない。
まだ少年の面影を残す氏治だった。
参列者へ頭を下げ、一人ひとりへ笑顔で礼を述べている。
武田旧臣にも。
小田家臣にも。
分け隔てなく。
その笑顔はどこまでも穏やかだった。
(……この方が。)
(父上を討った方。)
黄梅院は、思わず拍子抜けしてしまう。
もっと厳しい顔をした武将を想像していた。
もっと勝者らしく誇る人だと思っていた。
しかし目の前にいるのは、どこにでもいそうな年頃の少年だった。
だからこそ、その笑顔が不思議だった。
婚儀が終わると、黄梅院は一人、筑波山神社の境内から西を見つめた。
遠く。
西の方角。
そこには武田晴信の墓が静かに築かれている。
その周囲には、三国同盟戦役で命を落とした者たちの慰霊碑が並んでいた。
武田。
小田。
北条。
上杉。
敵も味方もなく、同じ石碑の下で弔われている。
さらに少し離れた場所には、那須と館林を祀る小さな社が建っていた。
春風が静かに吹き抜ける。
黄梅院は墓前へ向かって、小さく頭を下げた。
「父上。」
「私は……。」
言葉が続かない。
しばらく目を閉じた後、ゆっくりと顔を上げる。
「変わらなければなりません。」
「父上がお託しになった武田の人々のためにも。」
「そして、この新しい坂東で生きていくためにも。」
振り返ると、氏治が少し離れたところで待っていた。
急かすこともなく。
ただ静かに。
黄梅院が歩き出すのを待っている。
黄梅院はその姿を見つめ、小さく微笑んだ。
まだ心の傷は癒えていない。
父を失った悲しみも消えてはいない。
それでも。
筑波の春風は、止まっていた時を少しずつ前へ進めようとしていた。




