残された城
小田城跡歴史資料館を後にした治彦は、駐車場で車のエンジンをかけた。
夕暮れの空を見上げながら、深く息を吐く。
「思ったより変わっていませんでしたね。」
助手席の亡霊氏治が小さく笑う。
「私の評価か。」
「ええ。」
「落城を繰り返した武将というところは、そのままでした。」
「まあ、事実だからな。」
氏治は肩をすくめた。
「しかし。」
治彦はハンドルを握ったまま続ける。
「交流関係だけは増えていました。」
「宇都宮、結城、小山、真壁、大掾……。」
「近年の研究で見直されている、という形でしたけど。」
氏治は静かに頷く。
「朝久公が残したものだ。」
治彦は考え込む。
「そうか……。」
「知家公の時代は、坂東藤原流掟条という『形』を残した。」
「だから、小田の資料館だけでも歴史が変わったことが分かった。」
「でも今回は違う。」
「朝久公は制度を作ったわけじゃない。」
「人を結んだ。」
「だから歴史は、それぞれの家で変わっている。」
氏治は満足そうに笑う。
「ようやく気付いたか。」
「小田だけ見ても、朝久公の功績は見えぬ。」
「ならば。」
治彦はスマートフォンで地図を開いた。
「宇都宮ですね。」
「うむ。」
車は北へ走り出した。
筑波山を背に、常磐道から北関東道へ。
窓の外の景色がゆっくりと変わっていく。
氏治は静かに外を眺めていた。
「昔なら二、三日は掛かった道だ。」
「今では二時間ほどか。」
治彦は笑う。
「便利な時代ですよ。」
やがて宇都宮市街へ入る。
治彦は見慣れた交差点を曲がった。
その瞬間だった。
「……え?」
思わずブレーキを踏みそうになる。
目の前に広がる景色は、治彦の知る宇都宮ではなかった。
高い石垣。
深い水堀。
幾重にも重なる白壁の櫓。
そして堂々たる御殿。
「宇都宮城……。」
本来なら宇都宮城址公園がある場所。
そこには現代まで残された巨大な城郭がそびえていた。
「残ってる……。」
亡霊氏治も目を細める。
「これは見事だ。」
城門前には、多くの観光客が行き交っている。
子どもたちは甲冑武者と記念撮影をし、海外からの旅行客が櫓を背景に写真を撮っている。
誰もが、この城が何百年も前からそこにあるものとして受け入れていた。
城門脇の石碑には金文字で刻まれている。
『国宝 宇都宮城』
その説明文を治彦は読む。
『享徳の乱後、坂東諸家の協力により大改修が行われた宇都宮城は、関東北部防衛の中核として発展した。江戸時代以降も重要拠点として保護され、大規模な戦火や廃城を免れたため、現代まで往時の姿を伝えている。』
「朝久公……。」
治彦は呟く。
「あなたが結んだ縁が、この城を未来まで残したんですね。」
二人は城門をくぐる。
城内は畳敷きの御殿を活用した歴史資料館となっていた。
入口には大きな案内板が掲げられている。
『宇都宮城歴史資料館』
展示は宇都宮氏の始まりから始まる。
藤原北家の流れを汲む名門。
源平の戦。
鎌倉幕府の成立。
そして、大きく設けられた一室。
『承久の乱 東国武士の忠節』
さらに、その奥には資料館最大の展示室があった。
治彦は思わず息を呑む。
『享徳の乱 偽りの評定』
展示室の中央には、巨大な屏風絵。
中央上座には威厳ある古河公方。
その右には机を叩き、攻勢を主張する小田朝久。
左には静かに「坂東藤原流掟条」を根拠に停戦を説く宇都宮成綱。
結城、小山、真壁ら諸将が居並び、評定は今にも決裂しそうな緊張に包まれていた。
だが、柱の陰には誰にも気付かれぬ一人の若者がいる。
巻物を広げ、黙々と筆を走らせる記録役。
治彦は言葉を失った。
「……俺だ。」
もちろん名は残っていない。
解説にはただ一行。
『若き記録役。名は伝わらないが、この評定を克明に記し、後世へ伝えた人物とされる。』
亡霊氏治は静かに微笑んだ。
「歴史を変えた者の名は忘れられる。」
「だが。」
「歴史を書き残した筆は、決して消えぬ。」
治彦はガラス越しの屏風を見つめ、小さく頷いた。
自分の名は史書にはない。
それでいい。
あの日、朝久と宇都宮が結んだ信義が、四百五十年の時を越え、城となり、展示となり、人々の記憶となって残っている。
それだけで、自分が戦国を駆けた意味は十分にあった。




