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治彦大明神

治彦が北浦温泉へ強制的に送られてからも、白虎寮の工房は止まらなかった。

机の上には治彦が残した設計図。

壁には改良案。

職人も寮生も、それを囲んで議論を続けている。

そんな白虎寮には、いつの間にか奇妙な言い伝えが生まれていた。

工房の片隅に置かれた古びた机と椅子。

治彦が毎日のように座り、図面を描いていた場所である。

ある寮生が冗談半分でその机へ触れ、自分の頭を撫でた。

「……何か思いついた!」

それを見た別の寮生も真似をする。

「本当だ!」

「俺もだ!」

もちろん偶然である。

だが噂はあっという間に兵学館中へ広まった。

「白虎寮には、触ってから自分の頭を撫でると発想が良くなる机がある。」

気付けば毎朝、その机へ触れてから研究室へ向かう寮生まで現れる始末だった。

ある日、白虎寮の誰かが悪戯心から小さな木札を作った。

そこへ筆で大きく書く。

『治彦大明神』

工房中が笑いに包まれた。

「ご利益がありますように。」

「良い案が浮かびますように。」

皆が手を合わせるものだから、ついには供え物として団子や干し柿まで置かれるようになる。

陳猛哲は苦笑する。

「生きておる者を神にするとは。」

モンケも肩を震わせた。

「本人が見たら卒倒しますぞ。」

一方、工房では着実に成果が現れ始めていた。

治彦の図面を基に試作された盾用天蓋。

竹で軽い骨組みを作り、その上へ油を染み込ませた獣革を張る。

折り畳めば盾の裏へ収まり、戦闘になれば素早く展開できる。

試験では火皿へ落ちる雨粒を大きく減らすことに成功した。

「形になりました。」

職人が報告すると、陳猛哲は何度も頷いた。

「これなら十分実戦に耐えますな。」

さらに白虎寮ではホイールロックの研究も続いていた。

氏治が手に入れた原盤は長銃を想定した大きさで、重く複雑だった。

しかし治彦が残した設計図には、まったく違う考え方が描かれていた。

「短く。」

「小さく。」

その通りに歯車を縮小して試作すると、驚くべき結果が現れる。

「軽い!」

「歯車の負荷が大幅に減りました!」

「これなら実用になります!」

職人たちは歓声を上げた。

陳猛哲は完成した機構を手に取り、しばらく眺めていた。

「不思議な御方ですな。」

隣でモンケも静かに頷く。

「治彦殿は、考え抜いて答えへ辿り着く方ではありません。」

「まるで最初から答えだけをご存じのように筆を走らせる。」

陳猛哲は苦笑した。

「我らが十年かけて辿り着く答えを、一晩で描いてしまう。」

「いや。」

モンケは完成した短筒を見つめながら小さく呟いた。

「百年です。」

「治彦殿の筆は、一つの発想で時代を百年縮めてしまう。」

工房にいた者たちは、その言葉へ静かに頷いた。

誰も気付いていなかった。

その「発明の神」は今頃、北浦温泉で湯に浸かりながら、休むことにも飽き始めていることを。

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