武田晴信、最後の評定
附城の戦いは終わった。
武田晴信が捕縛されたとの報は、戦場を駆け巡る。
「御屋形様が……。」
その知らせを聞いた武田兵は、次々と槍を下ろした。
なお抗戦を叫ぶ者もいたが、馬場信春ら重臣が制すると、戦場は急速に静まり返っていく。
氏治も深追いは命じなかった。
「追うな。」
「負傷者を救え。」
敵も味方もなく救護が始まり、附城を巡る激戦は幕を閉じた。
この戦は甲信の勢力図を大きく変えた。
武田軍主力が壊滅したことで、信濃は上杉方の勢力下へ入る。
北条軍も駿河へ進み、武田方の城を調略によって次々と接収し、甲斐との国境まで勢力を広げていた。
それでも武田家が完全に滅んだわけではない。
木曽谷ではなお武田方へ忠義を尽くす国衆が兵を集め、抗戦の構えを見せている。
しかし、もはや武田宗家が天下を争う日は終わっていた。
小田軍本陣。
武田晴信は武装を解かれ、一室へ通されていた。
縄は掛けられていない。
見張りこそ置かれているが、将としての礼を尽くされている。
氏治は天幕へ入ると、家臣たちを見渡した。
「皆、外してくれ。」
真壁が驚く。
「殿、お一人では危のうございます。」
宇都宮も進み出る。
「武装は解いておりますが、お相手は晴信にございます。」
しかし氏治は穏やかに笑った。
「大丈夫だ。」
「この方は約を違える武将ではない。」
家臣たちは渋々ながら外へ下がった。
氏治は晴信の前へ座る。
しばらく無言の時間が流れる。
やがて氏治が口を開いた。
「晴信殿。」
「生きてください。」
晴信は静かに目を閉じた。
「……何ゆえ。」
「あなたほどの将が坂東におられれば、多くの命が救われます。」
「どうか私に仕えてください。」
晴信は小さく笑った。
「若殿。」
「それはできぬ。」
「この戦で余は、多くの家臣と兵を死なせた。」
「那須も館林も命を落とした。」
「勝てば家臣の功。」
「敗れれば大将の責。」
「そのけじめをつけねばならぬ。」
氏治は何度も説得した。
しかし晴信の決意は変わらなかった。
長い沈黙の末、氏治は静かに頷く。
「……承知しました。」
晴信も深く頭を下げた。
「かたじけない。」
そして穏やかに続ける。
「一つだけ願いがある。」
「家臣たちと最後に話をさせていただきたい。」
「もちろんです。」
やがて武田家臣団が集められた。
馬場信春。
武田信繁。
生き残った諸将が晴信の前へ並ぶ。
氏治は席を外そうと立ち上がる。
「では私は——。」
「お待ちくだされ。」
晴信が呼び止めた。
「殿にも聞いていただきたい。」
氏治は再び腰を下ろした。
晴信は家臣たちをゆっくり見渡す。
「皆。」
「よくここまで余を支えてくれた。」
すすり泣きが広がる。
「これより先は、小田殿を頼れ。」
誰も顔を上げられない。
「敵として戦った。」
「しかし余は、この御方ほど武士を武士として遇する者を知らぬ。」
晴信は氏治へ向き直る。
「お願い申し上げる。」
「我が姫を、お守りいただきたい。」
氏治は深く頷いた。
「必ず。」
晴信は信繁と馬場信春を見る。
「信繁。」
「……兄上。」
「馬場。」
「はっ。」
「そなたらは武田の宝だ。」
「よく鍛えた精鋭でもある。」
「どうか、その力を坂東のために振るってほしい。」
そして氏治へ深く頭を下げる。
「この者たちを、お使いくだされ。」
氏治は目を潤ませながら答えた。
「お預かりします。」
「皆さまを坂東の仲間として迎えます。」
武田家臣団は一斉に頭を下げた。
晴信は静かに立ち上がった。
一人ひとりの顔を見渡す。
やがて穏やかに笑った。
「勘助がおらぬのは寂しいものよ。」
家臣たちが顔を上げる。
「山本勘助は、この戦で先に逝った。」
「今頃は地獄で策でも練っておろう。」
晴信は懐かしむように目を細めた。
「きっと申す。」
『殿、遅うございましたな。』
その言葉に、涙の中から小さな笑みがこぼれる。
晴信は最後に氏治を見る。
「坂東を、頼み申す。」
「必ず。」
氏治は深く頭を下げた。
晴信は再び家臣たちへ向き直る。
「余は先に参る。」
「勘助と、地獄で国取りをしてくるゆえ。」
「しばらくの、さらばだ。」
その言葉とともに、武田家臣団は一斉に額を床へつけた。
「御屋形様!」
「御屋形様!」
天幕は慟哭に包まれる。
氏治もまた静かに頭を垂れた。
敵として刃を交えた名将へ。
武士として最後まで誇りを貫いた武田晴信へ。
深い敬意を込めて。
こうして、一つの時代が終わり、新たな坂東の時代が静かに幕を開けたのであった。
この後は自然な流れで「坂東大評定」へとつながります。




