北浦、湯けむりのはじまり
六月――。
真壁幹久は氏治の命を受け、北浦へ着任した。
先の戦で負った傷はすでに塞がっていた。
しかし氏治は首を横に振った。
「傷が塞がることと、身体が癒えることは違う。」
「無理はするな。」
「北浦を治めるのは長い務めだ。今は大事を取れ。」
その言葉に従い、幹久は弟・幹永とともに、北浦で見つかった温泉へ向かった。
湯煙の立つ小さな湯へ兄弟は肩まで身を沈める。
初夏の風が湖面を渡り、静かな時間が流れた。
幹久は大きく息を吐く。
「……生き返るな。」
幹永も穏やかに笑った。
「氏治様がお休みになれと仰る理由が分かります。」
二人は湯に浸かりながら、北浦を見渡した。
そこに広がるのは、果てしない林野と湿地であった。
氏治から託された北浦一帯は広大である。
だが、人の手が入っているのは、以前整備した湖畔西域の一角だけ。
その先は深い林と沢、湿地が続き、まさにこれから切り開く土地であった。
幹久は静かに呟く。
「惜しいな。」
「何がです。」
「この湯だ。」
「俺たちだけでは、もったいない。」
「殿にも入っていただきたい。」
「兵学館の者たちも。」
「戦で傷ついた兵も、働き詰めの百姓や職人も。」
「皆がここで身体を休められるようになればいい。」
幹永は兄の言葉に頷き、北浦の山並みへ目を向けた。
「兄上。」
「一つ温泉が見つかったということは……。」
「この広い北浦には、まだ眠っている湯があるのかもしれません。」
幹久は笑みを浮かべる。
「ならば焦ることはない。」
「水牛で開墾を進めながら、気長に探そう。」
その願いは、思いのほか早く叶うことになる。
数日後、湖畔の整備と新田の開墾を始めた水牛たちは、人の入れなかった沢筋へ次々と道を切り開いていった。
その最中、地面から立ち上る湯気が見つかる。
さらに別の沢でも。
また別の谷でも。
新たな源泉が姿を現し始めたのである。
幹永は驚きながら地図へ印を付けていく。
「兄上……。」
「まるで北浦を囲うように、湯が眠っております。」
幹久は静かに湯煙の向こうを見つめた。
「皆にも入ってほしい。」
何気なく口にしたその願いは、水牛たちが大地を切り開くたびに現れる新たな源泉によって、現実のものとなり始めていた。
こうして北浦は、開墾の地であると同時に、小田の奥座敷となる温泉郷への第一歩を踏み出したのであった。の湯煙
六月――。
梅雨の雲が切れ、束の間の青空が北浦に広がっていた。
昨夜までの雨を受け、木々は濃い緑をまとい、湖面は静かに陽光を映している。
湖畔の露天風呂では、真壁幹久と弟・幹永が肩まで湯に浸かっていた。
幹久の傷はようやく塞がっていたが、氏治からは「大事を取れ」と厳命され、北浦で静養を兼ねて着任していた。
幹久は空を見上げ、大きく息を吐く。
「……生き返るな。」
幹永も頷いた。
「氏治様がお休みになれと仰った意味が、ようやく分かりました。」
二人はしばらく何も語らず、風が木々を揺らす音だけを聞いていた。
その静寂を破るように、藪の向こうから大きな影が現れる。
一頭、また一頭。
水牛の群れであった。
水牛たちは迷うことなく湯へ近づき、鼻を鳴らしながら浅瀬へ入っていく。
幹久はその様子を見て豪快に笑った。
「はははっ! 先客がおったか。」
幹永も笑いながら身体を少し横へずらす。
「兄上、少し詰めましょう。」
「湯は広い。」
「牛にも入らせてやれ。」
やがて一頭の大きな水牛が兄弟のすぐ近くへ腰を下ろし、気持ちよさそうに目を細めた。
幹久はその大きな背をぽんと叩く。
「お前も疲れたか。」
幹永は水牛の様子を眺めながら、小さく呟いた。
「兄上。」
「何だ。」
「牛の気持ちになって考えてみたのです。」
幹久は興味深そうに弟を見る。
「ほう。」
「私たちは人が住みやすいように土地を整えようとしております。」
「ですが、それが牛にとっても良い土地とは限らないのではないでしょうか。」
幹久は黙って耳を傾ける。
「この子たちは木陰で休み、泥に身体を沈め、水辺で草を食べる。」
「暑ければ水へ入り、寒ければ温泉で身体を温める。」
「人には原野でも、牛には住みやすい土地なのかもしれません。」
幹久は湯煙の向こうに広がる北浦を見渡した。
そこには人の手が入っている湖畔西域と、その先に続く広大な林野が広がっている。
「なるほどな。」
「俺たちは人の都合ばかり考えていた。」
幹永は地図を取り出した。
「西は、このまま牛の拠点といたしましょう。」
「湖畔には湯宿を建て、兄上が願われたように、誰もが身体を休められる小田の奥座敷にいたします。」
「潮来まで水牛車を定期的に走らせれば、荷も人も運べます。」
「湯治客も商人も迷わず来られるでしょう。」
幹久は頷いた。
「よい。」
「では東はどうする。」
幹永は深い森へ目を向けた。
「無理に開墾いたしません。」
「この林野を管理いたします。」
「鹿島と潮来で造船が本格化すれば、建材も船材もいくらあっても足りなくなります。」
「植え、育て、伐り、また植える。」
「森そのものを育てるのです。」
幹久は思わず笑った。
「赴任した時は、ただの原野だと思っていた。」
「今では宝の山にしか見えぬな。」
幹永も微笑んだ。
「宝とは、見つけるものばかりではありません。」
「育てるものでもあります。」
その時、一頭の水牛が鼻先で兄弟を軽く押した。
まるで「話は終わったか」と言わんばかりである。
幹久は豪快に笑い、水牛の首を撫でた。
「そうだな、お前たちの住みやすい国も作らねばなるまい。」
水牛は満足そうに鼻を鳴らし、再び湯へ身を沈めた。
その穏やかな光景を眺めながら兄弟は笑い合う。
人と牛が同じ湯で疲れを癒やす北浦。
その何気ない一日が、後に小田の奥座敷と呼ばれる温泉郷、そして坂東水軍を支える豊かな森づくりの始まりとなるのであった。




