歴史の針
小田原で北条の姫との初対面を終えた氏治は、笠間幹永を伴って帰路についた。
姫の不安が少しでも和らいだことに安堵しながら、二人は鎌倉へ向かう。
鎌倉では、治彦と鹿島政道が待っていた。
二人は小田原での正式な顔合わせには同席せず、越相常三国同盟成立後の連絡や、鎌倉に残る商人・寺社との折衝を進めていたのである。
鶴岡八幡宮へ続く道の手前で一行は合流した。
鹿島が氏治の顔を見るなり、にやりと笑う。
「殿。随分と穏やかな顔をしておられますな。」
「何の話だ。」
氏治は少しだけ目を逸らした。
笠間幹永が隣で笑いを堪えている。
治彦はその様子を見て、おおよその成り行きを察した。
「無事にお話しできたようですね。」
「ああ。」
氏治は短く答えた。
「少なくとも、怖がらせずには済んだと思う。」
鹿島がさらに何か言おうとしたが、氏治は先に歩き出した。
「帰るぞ。」
四人は鎌倉を後にし、坂東への道を進んだ。
街道には荷駄が連なり、商人や職人、旅人が絶え間なく行き交っていた。
異国風の衣をまとった者もいる。
越後へ向かう荷。
奥州南部へ送られる牛や農具。
鹿島へ運ばれる鉄材や木材。
鎌倉から坂東へ続く道は、以前にも増して活気に満ちていた。
鹿島が馬上から往来を眺め、満足そうに言う。
「越後にも奥州にも、新しい交易路が開きました。」
「坂東から牛、芋、農具、鉄砲を送り、向こうからは馬、鉄、木材、漆、海産物が入っております。」
「坂東だけではない。近頃は小田原も鎌倉も、ずいぶんと物の巡りがよくなりました。」
治彦は街道を眺めながら答えた。
「たぶん、日本全体の商いが増えているんだ。」
鹿島が不思議そうに振り向く。
「日本全体、ですか。」
「坂東が異国から大量に買い、同時に大量に売るようになった。」
「すると商人は、一度日本へ来れば鹿島だけではなく、小田原や鎌倉、堺、博多にも寄るようになる。」
「港同士で商いを奪い合っているように見えて、実際には日本へ来る船そのものが増えているんだ。」
鹿島はしばらく考え、やがて頷いた。
「海の富を分け合っているのではない。」
「海の富そのものが大きくなっている、と。」
「そういうことだ。」
氏治も会話に加わった。
「ならば悪いことではない。」
「坂東が栄え、日本も栄えるなら、それに越したことはない。」
だが治彦は、素直に喜びきれなかった。
本来の歴史であれば、この頃には甲斐、駿河、相模を結ぶ同盟が東国の均衡を形作るはずだった。
しかし、この世界に甲相駿三国同盟はない。
北条は早くから小田と結び、そこへ上杉が加わった。
越後、相模、常陸を結ぶ越相常三国同盟。
その成立によって、東国の力の流れは大きく変わった。
上杉と北条は関東で消耗せず、西へ向かう。
小田は関東を足場に、奥州へ向かう。
甲斐と駿河を巡る争いも、史実とは違う形で早く始まるだろう。
「勢力が広がる向きまで変わった。」
治彦が呟くと、鹿島が顔を向けた。
「何がです。」
「北条と上杉は西へ。」
「小田は北へ。」
「本来なら関東でぶつかるはずだった力が、別々の方角へ流れ始めている。」
鹿島は面白そうに笑う。
「川の流れを変えたようなものですな。」
「川なら、どこへ流れるか予測できる。」
治彦は街道の先を見つめた。
「歴史は、そう簡単じゃない。」
道沿いの村から、鍛冶場の槌音が聞こえてきた。
氏治がそちらへ目を向ける。
村の外れには新しい工房が建ち、職人たちが銃身らしき鉄管を運んでいた。
鹿島が苦笑する。
「また鉄砲村です。」
「近頃は各地で坂東を真似ております。」
「鍛冶を集め、部品を分けて作り、村ごと鉄砲を造ろうとしている。」
「上手くいっているのか。」
氏治が尋ねる。
「出来の良し悪しはあります。」
「されど、数年前なら鉄砲を造ろうとも考えなかった村が、今では堂々と工房を構えております。」
治彦はその光景を見つめた。
坂東国友村で始めた分業と規格化。
それは小田だけのものではなくなっていた。
商人が見て、職人が学び、大名が真似る。
一つの成功が次の成功を呼び、技術の伝わる速さまで変わっている。
「時代の針が、早く進んでいる気がする。」
治彦の言葉に、氏治が振り返る。
「早いことは悪いのか。」
「分からない。」
治彦は正直に答えた。
「国が豊かになり、技術が広がるのは良いことだと思う。」
「でも、鉄砲も船も兵糧も増えれば、戦も大きくなる。」
鹿島は笑みを消し、街道の工房を見た。
「皆が豊かになれば、皆が長く戦えるようになる。」
「ああ。」
治彦は頷いた。
「僕たちは一つの国だけを変えたつもりだった。」
「でも、もう日本全体が動き始めている。」
氏治はしばらく黙った後、前を向いた。
「ならば、我らも止まるわけにはいかぬ。」
「他国が学ぶなら、坂東はさらに学ぶ。」
「他国が船を造るなら、坂東はさらに速い船を造る。」
「他国が鉄砲村を造るなら、坂東は兵学館で次の戦い方を考える。」
その声に迷いはなかった。
治彦は小さく息を吐く。
歴史は変わった。
いや、変わり続けている。
しかも、もはや氏治や治彦の手だけで動いているのではない。
坂東を見た諸国が自ら学び、自ら選び、新たな時代を作り始めていた。
鎌倉から坂東へ続く街道を、四人は進んでいく。
その道の先には、しばしの内政と、やがて訪れる甲斐遠征、そして蘆名との決着が待っていた。




