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北へ吹く風

前橋の戦が終わり、関東に束の間の静けさが戻った。

しかし、その静けさの中で最も忙しく動いていたのは軍勢ではなかった。

鹿島衆の船団であり、商人であり、見聞方であった。

那珂湊から相馬へ向かった船団は、約束どおり捕虜を送り届けた。

傷を治された兵。

帰路の食糧。

そして米、塩、薬、農具、種籾、種芋まで積み込まれている。

港に集まった相馬の人々は、その光景に息を呑んだ。

「敵が……ここまでするのか。」

捕虜として連れて行かれたはずの兵たちは家族のもとへ帰り、荷は倉へ運ばれていく。

相馬家では評定が開かれた。

氏治からの書状には二つのことだけが記されていた。

一つ。

那珂湊で戦ったことに遺恨は残さぬこと。

一つ。

海路を開き、互いに商いを盛んにしようということ。

臣従を求める言葉は、一文字もなかった。

その代わりに添えられていたのは、坂東藤原流掟条の写しである。

『坂東藤原に縁ある者、互いに困窮する者を見捨てるべからず。』

『掟に応じる者には、小田氏治、支援を惜しまぬ。』

相馬当主は静かに書状を閉じた。

「まず礼を尽くそう。」

「交易の話は、その後だ。」

この返答は、すぐに那珂湊へ届いた。

氏治は微笑むだけだった。

「急ぐ必要はない。」

「友は、急いで作るものではない。」

一方、鹿島政道は別の命を受けていた。

「奥州へ使者を出します。」

氏治は頷く。

「だが、同盟を迫るな。」

「まずは挨拶だけでよい。」

「坂東藤原流に縁ある家へ、掟条を届けよ。」

「文に応じる者とは商いを始める。」

「困っている者には助けを出す。」

「それだけで十分だ。」

こうして見聞方と商販方は、それぞれ別の道を北へ向かった。

まず岩城。

海路による交易の利益に最も近い国である。

岩城では相馬へ届けられた支援の話が、すでに商人の口から広がっていた。

「捕虜を返したそうだ。」

「しかも米まで。」

「那珂湊はずいぶん景気がいいらしい。」

岩城の重臣は言う。

「一度、話だけでも聞こう。」

続いて白河。

結城家との縁を通じ、小田から書状が届けられる。

白河結城氏は、その名に目を止めた。

「結城と小田がここまで結び付いているのならば、無視はできぬ。」

こちらもまずは返書を送ることを決めた。

さらに石川氏にも書状が届く。

「坂東藤原流掟条。」

石川の当主はしばらく眺めた後、小さく笑う。

「面白い。」

「すぐ味方になるつもりはない。」

「だが、この氏治という若殿、一度会ってみたいものだ。」

その評判は、須賀川の二階堂氏にも届く。

二階堂では慎重論が大勢だった。

「蘆名を刺激する必要はない。」

「だが、小田とも敵になる必要はない。」

「使者だけは出しておけ。」

こうして南奥州では、小田へ敵意を向けるよりも、まず話を聞こうという空気が少しずつ生まれ始めた。

一方、田村家でも同じ噂が届いていた。

「相馬へあれほどの支援を。」

「佐竹ではなく、小田と結んだ方が得ではないか。」

そんな声も上がる。

しかし田村当主は静かに首を振った。

「まだ早い。」

「様子を見る。」

「だが、氏治という男は覚えておこう。」

その頃、会津・黒川城。

蘆名家の評定には佐竹義重も同席していた。

次々と届く報告に、重臣たちの表情は険しくなる。

「相馬、返書を送る。」

「岩城、使者を受け入れる。」

「白河も返答。」

「石川も書状を受理。」

「二階堂も使者を迎えたとのこと。」

蘆名当主は静かに地図を見つめた。

「まだ誰も小田へ従ってはおらぬ。」

義重が答える。

「しかし皆、小田へ扉を開きました。」

「それで十分なのです。」

「氏治は兵を送っておりませぬ。」

「船と米と書状だけで、人心を動かしております。」

蘆名当主は深く息を吐いた。

「戦より厄介だ。」

「戦なら勝てば終わる。」

「人の心は、一度離れれば戻らぬ。」

義重も静かに頷く。

「だからこそ、今止めねばなりませぬ。」

「氏治は城を攻めているのではない。」

「国そのものを味方につけようとしております。」

黒川城の広間は静まり返った。

関東で始まった一つの戦は、いつしか奥州南部の諸将の心を揺らし始めていた。

そして水戸城。

北から届いた返書の山を前に、氏治は鹿島政道へ静かに言った。

「よい。」

「兵はまだ北へ向けぬ。」

「風だけを送れ。」

「風が十分に吹けば、人は自らこちらへ歩いてくる。」

鹿島は深く一礼した。

「承知いたしました。」

戦は終わっていない。

だが次の戦は、刀ではなく書状と船と商いが勝敗を決めようとしていた。

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