北へ広がる風聞
相馬へ向かった船団が那珂湊を発ってから半月。
春の海は穏やかで、小田の船は何事もなく相馬の浜へ到着した。
港では傷の癒えた捕虜たちが家族との再会を果たし、積み荷の米俵や塩、薬、農具、種籾、種芋が次々と陸へ運び出されていく。
その光景は港に集まった者たちの目を疑わせた。
「本当に返してきた……。」
「しかも兵糧まで持たせて。」
「これほどの荷を見返りもなく。」
誰も信じられなかった。
戦国の世で、敵兵をここまで厚遇する大名など聞いたことがない。
相馬家でも評定が開かれていた。
当主の前には氏治の書状と、坂東藤原流掟条の写しが置かれている。
重臣の一人が静かに口を開いた。
「佐竹殿からは再び出兵要請が届いております。」
別の者が続ける。
「小田殿からは交易と相互扶助の申し出。」
「しかも捕虜を返し、これほどの支援まで。」
広間は静まり返る。
相馬の当主はゆっくりと立ち上がり、窓の外を眺めた。
港では小田から届いた米俵が倉へ運ばれ、負傷兵たちは家族に迎えられている。
「あれを見よ。」
誰もが外へ目を向けた。
「戦で失ったものを返そうとしている。」
「刀ではなく船で。」
「槍ではなく米で。」
「これが氏治という男か。」
その言葉に重臣たちも黙って頷いた。
その頃。
那珂湊では鹿島政道が見聞方を集めていた。
「殿より新たな命である。」
机の上には南奥州一帯の地図が広げられる。
「これより奥州各地へ散る。」
「商人となり、旅僧となり、船頭となれ。」
若い見聞方が尋ねた。
「何を調べましょう。」
鹿島は首を横へ振る。
「調べるだけではない。」
「風を運ぶ。」
「風……でございますか。」
「そうだ。」
鹿島は微笑んだ。
「『小田は捕虜を返した。』」
「『相馬を救った。』」
「『海路を開いた。』」
「『坂東藤原流の縁を大切にしている。』」
「それだけでよい。」
「こちらから吹聴するな。」
「尋ねられたら答えよ。」
「見たことだけを語れ。」
「噂は誇張すると嘘になる。」
「だが事実だけでも十分に人は驚く。」
見聞方たちは一斉に頭を下げた。
「承知。」
数日後。
奥州南部の宿場町。
旅籠では旅人たちが酒を酌み交わしていた。
「聞いたか。」
「相馬へ行った小田の船。」
「ああ。」
「捕虜を皆返したらしい。」
「米まで積んでな。」
「しかも海路まで開くとか。」
別の商人が頷く。
「佐竹について南へ行った者が言っていた。」
「敵だったのに傷まで治してくれたそうだ。」
話は宿場から宿場へ伝わる。
商人が運び、
船頭が語り、
旅僧が聞き、
馬借が広める。
風聞は春風のように南奥州を巡っていった。
やがて、その噂は蘆名家にも届く。
黒川城。
佐竹義重も同席する評定で、一人の家臣が報告した。
「相馬は小田より多くの支援を受けております。」
「捕虜返還。」
「兵糧援助。」
「海路開設。」
「さらに坂東藤原流掟条なるものを掲げ、奥州諸家にも文を送っているとのこと。」
蘆名の重臣たちは顔を見合わせた。
「兵ではなく商いで勢力を広げるか。」
「これでは攻められたとも言えぬ。」
義重は苦々しく唇を噛んだ。
「氏治……。」
「あの男は城を落とすより先に、人の心を落としに来る。」
蘆名当主は静かに言った。
「佐竹殿。」
「このままでは相馬だけでは済まぬ。」
「やがて岩城も揺れよう。」
「さらに白河も。」
義重は深く頷く。
「だからこそ申し上げております。」
「今止めねば、小田は兵を動かさずして奥州へ根を張ります。」
一方、水戸城。
鹿島から報告を受けた氏治は静かに微笑んだ。
「思ったより早かったな。」
水戸頼治が尋ねる。
「何がでございます。」
「風聞だ。」
氏治は窓の外を見つめた。
「噂は人が運ぶ。」
「こちらが頼まなくても、驚いた者ほど他人へ話したくなる。」
「だからこそ相馬を手厚く遇した。」
真壁幹久が笑う。
「戦に勝つより金がかかりそうですな。」
氏治も笑った。
「戦は一度勝てば終わる。」
「だが信用は、一度得れば何度も助けてくれる。」
その時、評定の間へ一人の見聞方が駆け込んだ。
「ご注進!」
「南奥州より使者が参っております!」
「どこの者だ。」
「岩城家にございます!」
広間が静まり返る。
氏治は小さく頷いた。
「来たか。」
「相馬が第一歩。」
「ならば次は岩城。」
「風は、北へ吹き始めた。」
その報を聞いた諸将は顔を見合わせた。
氏治はまだ一兵も奥州へ送っていない。
それでも、奥州の諸家は自ら小田の門を叩き始めていたのである。




