海路の盟約
前橋から戻った氏治を迎えたのは、勝利を祝う歓声ではなかった。
水戸城の門前には、那珂湊から運ばれてきた負傷兵が並び、城下の寺では敵味方を問わず死者を弔う鐘が鳴っている。
戦には勝った。
佐竹を北へ退け、上杉の進軍を止め、北条を守った。
真壁幹久は「赤鬼」の名を関東一円へ轟かせ、宇都宮尚綱の「青鬼」と並び称されるようになった。
だが、氏治が馬を降りて最初に見たものは、片足を失った兵が杖をつきながら家族のもとへ戻る姿だった。
幼い子が父の足へ抱きつき、母が声を押し殺して泣いている。
氏治は足を止めた。
兵は氏治に気づくと、慌てて頭を下げようとする。
「そのままでよい。」
氏治は近づき、兵の肩へ手を置いた。
「よく帰った。」
兵は唇を震わせた。
「殿のおかげにございます。」
「違う。」
氏治は首を横へ振った。
「お前が帰ろうとしたから帰れた。」
「生きて帰ったことを誇れ。」
兵は何度も頷いた。
氏治はその場を離れた後も、しばらく振り返ることができなかった。
戦場では、兵を駒として動かさなければならない。
だが、一つ一つの駒には家があり、名があり、帰りを待つ者がいる。
真壁が自分の前へ立った時、氏治は自らの命ばかりを救われたのではない。
総大将として背負っているものを、改めて突きつけられたのだ。
「殿。」
隣を歩く水戸頼治が静かに声を掛ける。
「評定の支度が整っております。」
氏治は短く息を吐き、顔を上げた。
「行こう。」
戦は終わっていない。
前橋から上杉が退いても、佐竹義重は生きている。
そして佐竹は、敗れたまま黙っている男ではなかった。
水戸城の評定の間には、すでに諸将が集まっていた。
宇都宮尚綱。
結城。
真壁幹久。
笠間幹永。
宍戸政繁。
鹿島政道。
大掾。
那須。
小山。
そして水戸頼治。
前橋で傷を負った真壁は、右肩から胸へ白布を巻いていた。
それでも姿勢は崩さず、いつもと変わらぬ顔で座っている。
氏治はその姿を見ると、わずかに眉を寄せた。
「真壁。」
「はっ。」
「休めと言ったはずだ。」
真壁は困ったように笑った。
「座っているだけなら、休んでいるのと同じでございましょう。」
笠間幹永が横から口を挟む。
「兄上は、寝床から逃げて参りました。」
「余計なことを申すな。」
「医者が探しております。」
評定の間に小さな笑いが広がる。
氏治も呆れたように息を吐いた。
「評定が終わったら戻れ。」
「御意。」
「必ずだ。」
真壁は少しだけ間を置いてから頭を下げた。
「……御意。」
水戸頼治が地図を広げる。
常陸北部。
相馬領。
会津。
奥州へ続く山道。
「佐竹義重は、太田へ戻っておりませぬ。」
その一言で、場の空気が変わった。
宇都宮尚綱が腕を組む。
「では、さらに北へ逃れたか。」
「見聞方の報では、少数の近習を伴い会津方面へ向かったものと思われます。」
鹿島政道が続ける。
「蘆名でございましょう。」
氏治は地図へ目を落とした。
予想していたことだった。
佐竹だけでは、もはや小田へ対抗できない。
ならば、佐竹は必ず外の力を借りる。
相馬を再び動かすのは難しい。
那珂湊で多くの犠牲を出し、佐竹への不信も深まっている。
そうなれば残る大勢力は蘆名。
「義重は、蘆名へ何と説く。」
氏治が尋ねる。
水戸頼治は指先で、常陸から会津へ続く道をなぞった。
「小田が常陸を統一すれば、次は南奥州だと。」
「佐竹を緩衝とせねば、蘆名が直接小田と向き合うことになると訴えるでしょう。」
「嘘ではないな。」
氏治は静かに答えた。
諸将が氏治を見る。
氏治は地図から目を離さなかった。
「我らが常陸北部を固めれば、次に接するのは相馬、岩城、その先の奥州諸家だ。」
「商いも道も北へ伸びる。」
「蘆名が恐れるのは当然だ。」
宇都宮尚綱が口を開く。
「ならば、蘆名が動く前に佐竹を追い詰めるべきでは。」
「今すぐ北へ兵を進めれば、佐竹の立て直す暇を与えずに済みます。」
戦場の将としては正しい意見だった。
那珂湊と前橋で勝利した今、小田軍の士気は高い。
佐竹は敗れ、南奥州の援軍も離散している。
攻めるなら今だった。
だが氏治は首を振った。
「兵が疲れている。」
「那珂湊から前橋まで休まず戦った。」
「さらに奥州へ進めば、勝っても坂東が痩せる。」
尚綱は反論しなかった。
自ら率いた騎馬隊の疲弊を、誰よりも知っているからだ。
氏治は地図の東側へ目を移した。
太平洋沿岸。
相馬。
その南には、那珂湊と鹿島。
「先に相馬を取る。」
大掾が眉を上げる。
「攻めますか。」
「攻めない。」
氏治は即座に答えた。
「相馬は佐竹に呼ばれ、那珂湊で兵を失った。」
「今、相馬が欲しいのは戦ではない。」
「兵を帰し、領内を立て直すための食と銭だ。」
鹿島政道が、氏治の意図に気づいて笑みを浮かべる。
「海路でございますな。」
氏治は頷いた。
「那珂湊から船を出す。」
「米、塩、鉄、薬、家畜の餌。」
「捕らえた相馬兵も、傷を治して返す。」
評定の間が静まり返った。
真壁幹久がゆっくりと口を開く。
「捕虜を返されるのですか。」
「返す。」
「身代金は。」
「取らぬ。」
水戸頼治が氏治を見つめる。
「佐竹との違いを見せるおつもりですな。」
「佐竹は相馬を戦場へ呼び、兵を置いて逃げた。」
「我らは敵として戦った相馬兵を治し、家へ帰す。」
氏治は地図の上へ指を置いた。
「どちらと結ぶべきか、相馬自身に選ばせる。」
鹿島政道はしばらく考えた後、深く頭を下げた。
「お任せください。」
「那珂湊から相馬の浜まで、船ならば陸路より早い。」
「見聞方ではなく、商販方と交渉方を使います。」
氏治は微かに笑った。
「手荒方ではないのか。」
鹿島もにやりと笑う。
「その名はもう使っておりませぬ。」
評定の間に再び笑いが起こった。
だが、その笑いの奥には、これから始まる戦が刀や槍だけではないことを誰もが理解していた。
氏治は続けて命じる。
「大掾。」
「はっ。」
「相馬へ送る米と塩を用意せよ。」
「ただし施しとは言うな。」
「那珂湊で傷ついた者への見舞いとする。」
「承知いたしました。」
「真壁、笠間。」
二人が姿勢を正す。
「北方の村々へ牛と種芋を回せ。」
「佐竹との戦で荒れた土地を先に立て直す。」
真壁は傷の痛みを隠すように、静かに頭を下げた。
「戦が終われば、畑の番でございますな。」
「そうだ。」
氏治は真壁を見た。
「赤鬼には、鬼のままで畑を耕してもらう。」
「殿。」
真壁は苦笑する。
「その名で牛を追えば、牛まで逃げます。」
「兄上の顔には慣れております。」
笠間が平然と答え、諸将が吹き出した。
氏治は笑いながらも、すぐに表情を引き締めた。
「那須。」
「はっ。」
「北を見張れ。」
「佐竹を追うな。だが、常陸へ戻る道は塞げ。」
「承知。」
「宇都宮、結城。」
「はっ。」
「下野方面を固めよ。蘆名が西から動くなら、山道を通る。」
「相馬への働きかけを見て、佐竹が焦れば必ず動きが出る。」
宇都宮尚綱は頷いた。
「では我らは、槍を抜かずに敵を囲むのですな。」
「抜く時は来る。」
氏治は答えた。
「だが今ではない。」
評定が終わる頃には、日が傾き始めていた。
諸将がそれぞれの持ち場へ戻る中、真壁だけが立ち上がれずにいた。
肩の傷が開いたらしい。
笠間がすぐに兄の腕を取る。
「だから申し上げたでしょう。」
「少し足が痺れただけだ。」
「肩を押さえておいて、足とは便利な言い訳ですな。」
氏治も席を立ち、真壁の前へ歩いた。
「宝剣。」
真壁が顔を上げる。
「折れる前に、鞘へ戻れ。」
真壁は一瞬だけ驚いた後、穏やかに笑った。
「御意。」
「次に抜かれる時まで、よく研いでおきます。」
数日後。
那珂湊の港には、十数隻の交易船と小舟が並んでいた。
積まれているのは武具ではない。
米俵。
塩。
薬草。
鉄鍋。
種芋。
布。
そして傷の癒えた相馬兵たち。
相馬兵は皆、戸惑っていた。
捕虜となった以上、身代金を要求されるか、使役されるものと覚悟していた。
だが小田方は傷を治し、食を与え、武具を除く私物まで返した。
鹿島政道は船へ乗り込む兵たちを見渡した。
「相馬へ帰ったら、見たままを話せ。」
相馬兵の一人が尋ねる。
「何を、でございますか。」
「何でもよい。」
鹿島は海を見た。
「那珂湊がどのような城であったか。」
「小田の兵が捕虜をどう扱ったか。」
「佐竹がどの道から逃げたか。」
その最後の言葉に、相馬兵たちの表情が硬くなる。
鹿島はそれ以上何も言わなかった。
命じなくとも、彼らは話す。
家族へ。
同僚へ。
城下の者へ。
佐竹の命に従って南へ行き、誰が自分たちを置き去りにし、誰が生きて帰したのかを。
帆が上がる。
春の風を受け、船団は那珂湊を離れた。
同じ頃。
会津の黒川城では、蘆名家の評定が開かれていた。
広間の中央に座る佐竹義重は、敗軍の将とは思えぬほど堂々としていた。
鎧は脱ぎ、衣服も改めている。
だが顔には那珂湊で受けた疲労の影が残っていた。
その向かいに、蘆名の重臣たちが並ぶ。
「つまり。」
蘆名方の一人が口を開いた。
「佐竹殿は、我らに常陸まで兵を出せと申されるか。」
「違う。」
義重は答えた。
「蘆名のために、小田を止めよと申している。」
広間の空気が張り詰める。
「小田氏治は、すでに常陸南部と中部を押さえ、水戸と那珂湊を得た。」
「北条と同盟を結び、上杉の関東出兵すら止めた。」
「次に常陸北部を呑めば、相馬へ手を伸ばす。」
蘆名の重臣が鼻を鳴らす。
「相馬と小田が結んだところで、会津まで海が来るわけではあるまい。」
義重は首を横へ振った。
「海は来ぬ。」
「だが、鉄砲と米と銭が来る。」
「相馬が小田の海路を得れば、佐竹の北側に小田の味方が生まれる。」
「岩城も揺れる。」
「やがて会津の南と東は、小田と結ぶ諸家に囲まれる。」
「その時になってから、佐竹を残しておけばよかったと思っても遅い。」
蘆名の広間に沈黙が落ちた。
義重は、自らの敗北を隠さなかった。
那珂湊城の強さ。
鹿島衆の海上補給。
銃盾隊の前進。
焙烙玉の雨。
宇都宮騎馬の突撃。
すべてを語った。
敵を大きく見せることは、敗将の言い訳にも聞こえる。
だが義重の語りには誇張がなかった。
それだけに、蘆名の者たちは不安を覚えた。
佐竹が弱いのではない。
小田が、これまでの常陸大名とは違うのだ。
やがて上座から声がした。
「佐竹殿。」
「はっ。」
「兵を出すか否かは、すぐには答えられぬ。」
義重は深く頭を下げる。
「当然にございます。」
「だが。」
言葉が続く。
「小田の動きは調べる。」
「相馬と結ぶ兆しがあれば、我らも座してはおらぬ。」
義重は頭を下げたまま、口元にわずかな笑みを浮かべた。
十分だった。
蘆名はまだ動かない。
だが、こちらを向いた。
あとは小田が相馬へ手を伸ばせば、恐れが決断へ変わる。
そして義重の予想どおり、その報は間もなく会津へ届いた。
相馬の浜へ、小田の船団が入った。
米と塩を積み、捕虜を送り返し、通商の話を持ち込んだ。
その報を聞いた義重は目を閉じた。
「来たか。」
蘆名の重臣たちの表情も変わる。
小田氏治は、佐竹を追って兵を北へ向けなかった。
代わりに船を向けた。
軍勢より先に、商いと恩義を送り込んだ。
義重は膝の上で拳を握る。
戦場では負けた。
だが、本当の戦はこれからだった。
相馬を小田へ渡せば、佐竹は南と北東から挟まれる。
蘆名を動かせなければ、次の春を迎える前に常陸北部そのものが崩れる。
義重は上座へ向かって、もう一度頭を下げた。
「ご覧のとおりにございます。」
「氏治は、すでに奥州へ入っております。」
「兵ではなく、船と米をもって。」
「今止めねばなりませぬ。」
黒川城の外では、雪解けの水が音を立てて流れていた。
冬は終わろうとしている。
だが関東と奥州の境には、前橋よりも大きな戦の季節が、静かに近づいていた。




