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北へ逃れた虎

前橋から上杉軍が退いたとの報が常陸へ届いた頃、北方の山々にはなお冬の名残が残っていた。

谷間には薄汚れた雪が積もり、芽吹き始めた木々の間を冷たい風が吹き抜けている。

その山道を、十数騎の武者が北へ進んでいた。

旗はない。

法螺貝も鳴らさない。

馬具には泥がこびりつき、鎧は煤と血に汚れている。

その先頭にいたのは、佐竹義重であった。

那珂湊での大敗から、すでに幾日も過ぎていた。

だが、耳を澄ませば今も聞こえる気がする。

焙烙玉の爆ぜる音。

闇を裂く鉄砲の轟音。

兵糧庫を包んだ炎。

そして、混乱した本陣へ突き込んできた宇都宮騎馬の馬蹄。

あの夜、佐竹軍は敗れた。

いや。

佐竹軍だけではない。

相馬をはじめ、佐竹の呼びかけに応じて南下してきた南奥州の諸将も、多くの兵と将を失った。

土地勘のある佐竹勢は、細い山道や久慈川沿いの渡河点を使って退くことができた。

だが、遠国から来た者たちは違った。

どこへ逃げればよいのか分からず、炎と銃声の中をさまよった。

討ち取られた者。

捕らえられた者。

旗を捨て、鎧を脱いで逃げた者。

義重の目には、その姿が焼きついていた。

後ろを進む重臣が、耐えかねたように口を開く。

「殿。」

義重は振り返らなかった。

「何だ。」

「このまま北へ向かわれるのでございますか。」

「そうだ。」

「しかし、太田へ戻り兵を集めれば、なお戦えます。」

義重は馬を止めた。

山道に、蹄の音が途絶える。

「何と戦う。」

重臣は答えられなかった。

義重は静かに振り返る。

その顔には疲労が刻まれていたが、目だけは鋭さを失っていない。

「那珂湊は落ちなかった。」

「海から兵糧が入り、城から焙烙玉が飛び、銃盾隊が正面から押し出してきた。」

「小田の本隊は西へ向かいながら、なお我らを破った。」

誰も口を挟まない。

義重は北の山並みを見た。

「太田へ戻って兵を集めたところで、今度は那珂湊から小田が北上する。」

「海から鹿島が来る。」

「水戸から銃盾隊が来る。」

「そして北条を退けた軍勢まで戻ってくる。」

拳が強く握られる。

「今の佐竹だけでは、勝てぬ。」

その言葉は敗北を認めるものだった。

だが、義重の声に諦めはなかった。

むしろ敗北の形を正確に見定め、次に何をすべきか考えている者の声だった。

重臣が恐る恐る尋ねる。

「では、相馬を頼られますか。」

義重は鼻で笑った。

「相馬が、まだ我らを頼ると思うか。」

那珂湊で最も大きな犠牲を出したのは、佐竹領から遠く離れた南奥州勢だった。

佐竹は土地を知っていた。

逃げ道も、渡河点も、山道も知っていた。

だが、相馬をはじめとする援軍は知らなかった。

佐竹勢が北へ抜けた後も、彼らは戦場に取り残された。

義重に彼らを見捨てるつもりがなかったとしても、結果は同じである。

南奥州の諸将から見れば、

佐竹に呼ばれて南下し、

佐竹の戦場で兵を失い、

最後には佐竹だけが生き残った。

「相馬は我らを恨む。」

義重は低く言った。

「少なくとも、次に同じ檄を飛ばしても動かぬ。」

「むしろ小田が手を差し伸べれば、そちらを取る。」

重臣の顔が険しくなる。

「小田は奥州へまで手を伸ばすと?」

「伸ばす。」

義重は迷わず答えた。

「氏治は領地だけを奪う男ではない。」

「道を通し、港を開き、商いを与える。」

「敵を討って従わせるのではなく、従った方が豊かになると見せる。」

それこそが厄介だった。

武力だけならば、武力で抗える。

だが小田が持ち込むのは、兵糧であり、塩であり、鉄砲であり、港を通じた交易だった。

相馬が小田と結べば、太平洋沿岸の道がつながる。

那珂湊から鹿島、さらに相馬へ。

その海路が開けば、佐竹は東からも締め上げられる。

義重は再び馬を進めた。

「相馬ではない。」

「蘆名を頼る。」

重臣たちの間に、小さなどよめきが走る。

会津の蘆名。

南奥州でも屈指の勢力であり、佐竹を救えるだけの兵と領地を持つ家である。

だが、それだけに容易に頭を下げられる相手ではない。

「蘆名が、我らをお助けくださるでしょうか。」

義重は前を向いたまま答える。

「助けてもらうのではない。」

「恐れさせる。」

「小田が常陸をすべて呑めば、次に何が起きるかを教える。」

那珂湊、水戸、鹿島。

その先に相馬が加われば、小田の影響力は一気に南奥州へ伸びる。

東には海路。

南には北条との同盟。

西には下野を固める宇都宮や那須。

小田氏治の勢力は、もはや常陸の一大名ではない。

関東と南奥州の境そのものを塗り替えようとしている。

「佐竹を緩衝とせねば、次に小田と向き合うのは蘆名だ。」

義重はそう言い切った。

「それを分からせる。」

重臣は黙って頭を下げた。

山道はさらに険しくなっていく。

だが義重は馬を緩めなかった。

敗北したからこそ、止まるわけにはいかない。

このまま常陸北端へ追い込まれれば、佐竹はただ少しずつ削られて消える。

ならば戦を大きくする。

小田と佐竹の争いではなく、関東と奥州の境を巡る争いに変える。

蘆名を引き込み、会津の兵を南へ向けさせる。

そうすれば、まだ勝機はある。

その頃。

相馬領では、那珂湊から帰還した敗残兵たちが、城下へ次々とたどり着いていた。

ある者は片腕を失い、

ある者は足を引きずり、

ある者は武具さえ持たず、ただ家へ帰るために歩いていた。

城内では重苦しい評定が開かれていた。

広間の中央には、那珂湊で討ち取られた将たちの名が並べられている。

誰もが口を閉ざしていた。

やがて、一人の家臣が言った。

「佐竹殿より、再び使者が参ったならば、いかがなされます。」

しばしの沈黙。

上座の当主は、並べられた名を見つめたまま答えた。

「まず問う。」

「我らの兵を置き去りにし、どの道を通って逃げたのかとな。」

低い声が広間へ落ちる。

「そして次に、小田から使者が来たならば――」

そこで言葉を切った。

庭先では、春の風が木々を揺らしている。

「話だけは聞こう。」

家臣たちは静かに頭を下げた。

那珂湊での勝敗は、すでに一つの戦場だけに収まらなくなっていた。

佐竹の敗北は、南奥州諸将の心を佐竹から引き離し始めている。

小田氏治がまだ一兵も北へ進めていないうちから、国境の向こうでは新たな勢力図が生まれようとしていた。

そして会津へ向かう山道では、佐竹義重がただ一つの思いを胸に、馬を進め続けていた。

常陸を取り戻す。

そのためならば、蘆名を動かす。

奥州を巻き込む。

たとえ次の戦が、これまでよりはるかに大きなものになろうとも。

義重は雪の残る山並みを睨み、低く呟いた。

「氏治。」

「次は、常陸だけの戦ではないぞ。」

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