赤鬼、立つ 後編
前橋の平野に、新たな時代の鬨の声が響き渡った。
小田、北条、宇都宮、結城。
四方に分かれていた軍勢が、ひとつの意志を得たように前へ出る。
宇都宮尚綱の騎馬隊は上杉軍の右手から深く食い込み、その後ろを結城勢が埋めるように進んだ。騎馬隊が作った傷口へ槍足軽が入り、乱れた敵兵を押し分けていく。
正面からは北条軍が踏みとどまり、東からは氏治本隊が横撃を加える。
そして、その二つの軍勢の間へ、真壁幹久と笠間幹永の銃盾隊が浸透していた。
大盾が並ぶ。
鉄砲が鳴る。
盾が押し出される。
また、鉄砲が鳴る。
銃盾隊は敵を追って走らなかった。
上杉兵が崩れても、功を焦って隊列を乱す者はいない。
一歩。
もう一歩。
盾の列を保ったまま、確実に上杉軍の陣を割っていく。
宇都宮勢に側面を破られ、銃盾隊に中央を押し分けられた上杉軍右手は、ついに二つに裂けた。
「押せ!」
北条兵が叫ぶ。
「上杉が崩れたぞ!」
「今こそ追い落とせ!」
前橋南方で長く守勢に立たされていた北条兵たちにとって、それは待ち望んだ光景だった。
敵が退いている。
軍神の軍勢が、初めて自分たちの前で後ろを向いている。
疲れ切っていた兵たちの目に光が戻り、槍を握る腕に力がこもる。
氏康も前線を見渡し、声を張った。
「急ぐな!」
「敵が崩れた時ほど、足元を見よ!」
勝ちを急ぐ兵を抑えながらも、その目には戦機を逃すまいとする鋭さが宿っていた。
一方、上杉軍では怒号と法螺貝が飛び交っていた。
騎馬に乱された隊。
銃盾隊に押し出された隊。
北条軍へ食い込んだまま戻れなくなった隊。
軍勢は各所で切り離され、互いの位置さえ見失いかけている。
普通の軍ならば、ここで総崩れになっていただろう。
だが、上杉軍は普通ではなかった。
「前へ出過ぎた者は退け!」
直江実綱の声が響く。
「旗を見失うな!」
本庄実乃は自ら崩れた隊へ馬を乗り入れ、兵を後方へ誘導した。
柿崎景家は後退する兵を叱りつけるのではなく、自ら最後尾へ立った。
「逃げるなとは言わぬ!」
「列を作って退け!」
「五間退いたら止まれ! 止まって槍を揃えよ!」
その命令に兵が応える。
一隊が退く。
別の隊がその前へ出る。
崩れた者を後ろへ下げ、まだ余力のある者を前へ置く。
乱れていた上杉軍の動きが、少しずつ整っていった。
その中心に、「毘」の旗があった。
上杉謙信は馬上にありながら、騒がなかった。
怒鳴りもせず、敵の勢いに顔色ひとつ変えない。
ただ戦場を見ていた。
どこが崩れたか。
どこならば支えられるか。
どの敵を討てば、戦場全体が動くか。
謙信の目は、乱戦の中から一人の武将を捉えた。
蜈蚣切りを掲げ、小田軍全体へ命を飛ばす若い総大将。
小田氏治。
宇都宮の騎馬も、真壁の銃盾隊も強い。
だが、その二つを同じ瞬間に動かしているのは氏治だった。
「あれを討てば、東の軍は止まる。」
謙信は静かに槍を前へ向けた。
「予備を回せ。」
直江実綱が振り返る。
「御屋形様。右手はまだ――」
「右は下げよ。崩れた隊を無理に戻すな。」
謙信の声は平静だった。
「敵の勢いに逆らえば、傷口が広がる。」
「下がりながら列を作らせよ。」
「我らは退くのではない。向きを変えるだけだ。」
実綱は一瞬だけ目を見開き、すぐに頭を下げた。
「御意。」
法螺貝が鳴る。
上杉軍右手の隊が、追われるままに逃げるのではなく、互いに庇いながら後退を始めた。
同時に中央と左手の予備隊が動く。
敵を押し返すためではない。
氏治の本陣へ道を作るために。
謙信自らが先頭へ出た。
「我に続け。」
その短い一言に、周囲の空気が変わる。
崩れかけていた兵が顔を上げた。
軍神が前へ出る。
毘の旗が前進する。
それだけで、兵たちは自分たちがまだ敗れていないことを思い出した。
「御屋形様に続け!」
「小田の旗を倒せ!」
上杉精鋭が一斉に向きを変える。
これまで北条正面へ向いていた槍が、氏治本隊へ向けられた。
横へ流れるように部隊が動き、乱れていた戦場に新たな一本の線が生まれる。
その速さに、水戸頼治が息を呑んだ。
「来ます!」
氏治もすぐに気づいた。
上杉軍は退いていない。
崩れた隊を切り捨てるのでもない。
戦場の正面そのものを入れ替え、今度は自分たちを主敵として狙っている。
その先頭に、毘の旗がある。
「謙信自らか。」
氏治は蜈蚣切りを握り直した。
恐怖がないわけではなかった。
那珂湊で南東北の大軍を破った時とも違う。
恋瀬川で佐竹と向き合った時とも違う。
今、一直線に自分へ近づいてくるのは、ただ一人の武将ではない。
越後一国の兵を鍛え上げ、関東諸将を震え上がらせた軍神そのものだった。
近習たちが氏治の前へ集まる。
「殿、陣をお下がりください!」
「ここは危のうございます!」
氏治は首を振った。
「ここで旗を下げれば、小田勢は止まる。」
「だが――」
その言葉が終わる前に、鉄砲の音が轟いた。
謙信の前を走る兵が倒れる。
真壁幹久であった。
奪った馬を駆り、血に染まった大盾を片手に戻ってきた真壁は、氏治と上杉精鋭の間へ割って入った。
その横には笠間幹永もいる。
後ろには、銃盾隊から選び抜かれた精鋭が続いていた。
「兄上。」
幹永が敵の数を見て呟く。
「多いですな。」
真壁は笑った。
「数えられるうちは、まだ余裕がある。」
「殿。」
氏治が叫ぶ。
「真壁、前線はどうした!」
「銃盾隊の本隊は副将に任せております。」
真壁は馬を降りた。
奪った馬の手綱を近習へ押しつけ、再び大盾を地へ据える。
「敵が殿を狙ったならば、我らの前線はこちらでございましょう。」
幹永も兄の隣へ盾を並べた。
「兄弟で殿を守るのは、久しぶりですな。」
「昔は殿がもっと小さかったがな。」
「今もまだ十分お若いでしょう。」
二人は笑った。
だが、その目は謙信から外れない。
上杉精鋭が迫る。
謙信の旗本は、先ほどまでの騎馬突撃とは違った。
盾へ正面から馬をぶつける愚は犯さない。
馬上から槍を投げ、盾の端を狙い、銃盾隊の横へ回り込もうとする。
「左へ来る!」
幹永が叫ぶ。
真壁は盾をずらした。
「三歩だけ開けろ!」
盾の列がわずかに割れる。
そこへ上杉騎兵が飛び込もうとする。
「撃て!」
待ち構えていた鉄砲が至近距離で火を噴いた。
先頭の馬が倒れ、後続がもつれる。
だが、その陰から別の騎兵が出る。
真壁は盾を傾け、馬の胸へぶつけた。
大盾の上を蹄が滑る。
馬が横倒しになり、騎兵が地へ投げ出された。
幹永がその槍を払い落とす。
「次!」
休む間もなく敵が来る。
銃盾隊は壁ではなかった。
開き、閉じ、敵を誘い込み、鉄砲で倒す。
盾で止め、槍で払う。
兄が前を支え、弟が隙間を埋める。
幹永の指示が一瞬遅れれば、真壁が盾を滑らせて補う。
真壁が敵を引き受ければ、幹永が側面へ鉄砲を集中させる。
長く共に戦い、畑を拓き、牛を育て、盾を作ってきた兄弟に、言葉はほとんど必要なかった。
氏治もその後ろに立った。
「右から二隊!」
氏治が戦場全体を見て叫ぶ。
「幹永、そちらへ鉄砲を回せ!」
「はっ!」
「真壁、正面はまだ増える!」
「承知!」
三人の声が重なる。
氏治が敵の動きを読み、幹永が鉄砲を動かし、真壁が盾で受ける。
謙信の精鋭は強かった。
一度撃たれても後ろの兵が止まらない。
盾の正面が堅いと見れば、すぐに横へ回る。
横を閉じられれば槍を投げ、盾兵の腕や脚を狙う。
銃盾隊からも次々と負傷者が出た。
一人が倒れる。
すぐに後ろの兵が盾を受け取る。
大盾には矢が突き立ち、槍傷が走り、牛革は裂けていた。
それでも、列は破れなかった。
真壁の肩にも槍が掠めた。
血が甲冑を伝う。
幹永が振り返る。
「兄上!」
「浅い!」
「その言い方をする時は、だいたい浅くありません!」
「口が動くなら、お前もまだ無事だな!」
真壁は笑いながら盾を押し出した。
敵の槍が弾かれる。
上杉兵の顔が、盾の向こうに一瞬見えた。
真壁は槍を突き出し、その胸を払った。
氏治はその背を見ていた。
この男は、いつもそうだった。
評定では口数が多いわけではない。
新しい作物を育てる時も、豚や羊を増やす時も、弟や職人たちと泥にまみれて働く。
恩賞を求めるより先に、次に何を作るべきかを考える。
戦場では、氏治が危うくなるたびに前へ立つ。
それが当然であるかのように。
この男がいるから、自分は前を見られる。
この男が守るから、自分は退かずにいられる。
かつて氏治は、真壁を評して言った。
常陸一の宝剣である、と。
だが、宝剣とは鞘に収まり、主が抜くのを待つものだと思っていた。
違った。
真壁は自ら主の前へ出る。
刃となるだけではない。
時には盾となり、道となり、折れかけた軍勢を支える柱となる。
氏治の胸の奥に、熱いものが込み上げた。
戦場の轟音の中で、思わず言葉が漏れる。
「……やはり、真壁だ。」
真壁は振り返らない。
ただ、大盾を支えたまま答えた。
「お呼びでしょうか、殿。」
氏治は首を横へ振った。
「いや。」
「今、分かったのだ。」
氏治は蜈蚣切りを高く掲げた。
声を張る。
小田の兵へ。
北条の兵へ。
そして敵である上杉の兵にまで届くように。
「聞け!」
「あそこに立つ男を見よ!」
血に染まった真壁の甲冑。
槍傷だらけの大盾。
その横で兄を支える笠間幹永。
二人の背後で、銃盾隊が一歩も退かずに戦っている。
「あれこそ、我が常陸一の宝剣!」
「真壁幹久である!」
小田兵が声を上げた。
それは歓声というより、胸に積もっていた思いが一気に溢れたような叫びだった。
「真壁様!」
「常陸一の宝剣!」
北条兵も、その姿を見つめていた。
小田軍を救うだけではない。
今、真壁兄弟が止めている敵が抜ければ、北条軍もまた側面を破られる。
自分たちまで、あの盾に守られている。
一人の北条兵が叫んだ。
「宝剣だと?」
その兵は槍を掲げた。
「剣だけで、あれほどの敵を止められるものか!」
別の兵が応える。
「鬼だ!」
「赤い鬼が、軍神を止めている!」
「赤鬼だ!」
その声が広がった。
「赤鬼!」
「赤鬼、真壁!」
「赤鬼を倒させるな!」
小田と北条の兵が、同じ名を叫ぶ。
やがて上杉方でも、兵たちがその名を口にした。
「赤鬼を崩せ!」
「あの赤い武者を討て!」
敵味方の双方から呼ばれる異名。
それはもはや賛辞でも罵声でもなかった。
戦場そのものが認めた名だった。
真壁は盾の陰で苦笑した。
「殿。」
「宝剣だけでも恥ずかしいというのに、今度は鬼ですか。」
幹永が敵を撃ちながら笑う。
「兄上には、宝剣より鬼のほうがお似合いですよ。」
「後で覚えておれ。」
「生きて帰れたら、いくらでも。」
「ならば、帰るぞ。」
真壁は正面を見た。
「殿も、弟も、兵も。」
「誰一人として、ここには置いていかぬ。」
謙信は、そのやり取りを遠くから見ていた。
氏治の目前に築かれた盾の陣。
そこに立つ赤い武者。
小田兵だけでなく、北条兵までがその名を叫んでいる。
あれを討てば敵の士気を折れる。
だが、あれを討つために兵を重ねるほど、他の戦線が薄くなる。
謙信は馬上から戦場を見渡した。
右手は宇都宮と結城に食い込まれている。
中央は銃盾隊に押し分けられた。
そして今、自ら率いた精鋭が真壁兄弟の前で足を止めている。
勝てぬ戦ではない。
さらに兵を入れれば、氏治へ届く可能性はある。
だが、その時には北条氏康が動く。
謙信の予想どおり、北条本陣では氏康が全戦場を見つめていた。
謙信が氏治へ向きを変えたことで、正面と側面の役割が入れ替わっている。
先ほどまで北条を攻めていた上杉軍が、今は小田へ身体を向けている。
北条軍の前にあるのは、敵の正面ではない。
薄く伸びた側腹であった。
氏康の目が鋭く光った。
「今だ。」
側近が振り返る。
「御屋形様?」
「謙信は氏治殿を討つことに目を奪われた。」
氏康は槍を掲げた。
「戦場の正面が入れ替わったぞ!」
「全軍、柵を出よ!」
「上杉の腹を食い破れ!」
北条軍の太鼓が鳴った。
守り続けていた兵たちが、初めて簡易陣地の外へ出る。
槍衾が前へ進む。
鉄砲隊が左右から射撃を加える。
北条綱成が地黄八幡の旗を掲げて先頭へ出た。
「長く待たせたな!」
「今度は我らが押す番ぞ!」
北条軍が上杉軍の側腹へ突き刺さった。
その衝撃は大きかった。
氏治を狙って前へ集中していた上杉軍は、横からの北条軍を受け、再び隊列を乱す。
宇都宮尚綱もその機を逃さない。
「結城!」
「北条が出たぞ!」
「ならば我らも押し切る!」
青鬼の騎馬隊が再び駆ける。
結城勢がその後ろから敵を押し込む。
銃盾隊の本隊も、真壁兄弟の戦いに応えるように前進した。
「赤鬼を孤立させるな!」
「前へ!」
盾が上杉軍を北へ押す。
鉄砲が鳴る。
盾がまた一歩出る。
戦場は完全な乱戦となった。
北条と上杉。
小田と上杉。
宇都宮、結城、真壁、柿崎、本庄、直江。
旗と旗が入り交じり、誰がどの方向を向いているのかさえ分からない。
謙信も自ら槍を振るった。
馬上から一人を払い、迫る槍を受け流す。
その武勇を見て、上杉兵は再び奮い立った。
「御屋形様をお守りせよ!」
「毘の旗を下げるな!」
柿崎景家が騎馬をまとめ、北条綱成へぶつかる。
本庄実乃は崩れた中央を支え、直江実綱は撤退路となる北方の道を確保する。
上杉軍はなお強かった。
混戦に巻き込まれても、将が持ち場を失わない。
一つの隊が崩れれば別の隊が庇う。
誰かが前へ出過ぎれば、必ず別の旗が退路を作る。
真壁も謙信の恐ろしさを肌で感じていた。
押している。
確かに上杉軍を北へ押している。
それでも敵は壊れない。
「兄上。」
幹永が息を切らしながら言う。
「押し切れますか。」
真壁は敵陣を見た。
「押し切れる。」
「ただし、こちらも折れる。」
その答えに幹永は頷いた。
それで十分だった。
真壁は氏治へ振り返る。
「殿!」
「これ以上は兵がもちませぬ!」
氏治も同じことを考えていた。
目の前では勝っている。
上杉軍は少しずつ北へ退いている。
だが、追えば銃盾隊の列が伸びる。
宇都宮の騎馬も疲れている。
北条軍は何日も戦い続けた後である。
勝ちを急げば、軍神に付け入る隙を与える。
氏治は蜈蚣切りを上げた。
「追い過ぎるな!」
「銃盾隊は列を守れ!」
「宇都宮、敵の退路を塞ぐな!」
尚綱が驚いて振り返る。
「逃がされるおつもりか!」
「逃がすのではない!」
氏治は叫んだ。
「我らも生きて帰るのだ!」
その命令に、真壁は微かに笑った。
やはり殿だ。
勝利の熱に浮かされず、戦場全体を見ている。
謙信もまた、氏治の命令を聞いたかのように槍を下ろした。
短期で北条軍を崩す。
それがこの日の狙いだった。
だが、北条軍は踏みとどまり、小田軍が横から入り、真壁兄弟が氏治への突破を止めた。
これ以上戦えば、勝っても損が大きい。
そして損を重ねてまで関東に留まれば、信濃と越後が危うくなる。
「法螺を鳴らせ。」
謙信が命じた。
柿崎が振り返る。
「まだ戦えます。」
「戦えることと、戦うべきことは違う。」
謙信は北方を見た。
「渋川まで下がる。」
「隊を乱すな。傷ついた者を中央へ。余力のある者を外へ置け。」
「我らは敗走するのではない。」
「陣を改める。」
法螺貝が鳴った。
上杉軍は一斉に退かなかった。
前線の隊が攻撃を続ける間に、後方の隊が北へ移る。
次に前線を務めていた隊が下がり、新たな隊がその場を支える。
繰り返しながら、軍勢全体が少しずつ北へ動く。
見事な後退だった。
北条軍が追おうとすれば、柿崎勢が襲いかかる。
宇都宮が回り込もうとすれば、本庄勢が道を塞ぐ。
真壁の銃盾隊が進めば、鉄砲と弓で足を止められる。
謙信は最後まで軍神であった。
夕刻。
上杉軍は前橋の戦場を離れ、渋川方面へと陣を移した。
小田・北条連合軍も追わなかった。
戦場には、折れた槍、裂けた旗、倒れた盾が残された。
敵味方の負傷者の声が、夕暮れの平野に響いている。
氏治は馬を降りた。
真壁兄弟のもとへ歩く。
幹久は大盾へ身体を預けるように立っていた。
幹永も地面へ座り込み、荒い息をついている。
二人の鎧は血と泥にまみれていた。
氏治が近づくと、真壁は無理に姿勢を正そうとした。
「殿。」
「戦は――」
氏治は答えず、真壁の前で深く頭を下げた。
真壁と幹永が息を呑む。
周囲の兵も静まり返った。
「殿。」
「おやめくだされ。」
「今日、余が生きているのは、お前たちのおかげだ。」
氏治の声はわずかに震えていた。
「北条も守った。」
「小田の旗も守った。」
「そして余まで守った。」
「常陸一の宝剣という言葉でも、足りぬほどだ。」
真壁は困ったように笑った。
「ならば、宝剣は返上いたしましょう。」
氏治が顔を上げる。
真壁は、兵たちが呼んだ名を思い出すように肩をすくめた。
「どうやら私は、鬼になったようです。」
周囲から笑いが漏れた。
涙を拭いながら笑う者もいた。
氏治も笑った。
「そうだな。」
「常陸一の宝剣にして、坂東の赤鬼。」
「二つとも、お前の名だ。」
幹永が横から口を挟む。
「私は兄を支えたのですが、名はいただけないのでしょうか。」
真壁が笑う。
「お前は笠間の牛飼いで十分だ。」
「兄上よりは似合っております。」
兄弟の変わらぬやり取りに、兵たちの笑いが大きくなる。
その笑いは、生きて戦場を越えた者たちの声だった。
少し離れた場所では、氏康も真壁を見ていた。
北条綱成が隣で言う。
「見事な武者にございますな。」
氏康は頷いた。
「武者だけではない。」
「あの男がいたから、氏治殿は全軍を見ることができた。」
「主を守るだけの盾ではない。」
「主に前を向かせる盾だ。」
氏康は真壁の名を、ゆっくりと口にした。
「赤鬼、真壁幹久か。」
「今日より、その名は関東中へ響こう。」
夜。
両軍は互いに距離を取り、傷を癒やした。
勝ったとも、負けたとも言い切れない。
北条軍は守り切った。
小田軍は上杉軍を押し返した。
上杉軍は主力を保ったまま渋川まで退いた。
戦場だけを見れば、痛み分けであった。
翌朝。
北条本陣へ急使が入った。
「申し上げます!」
「武田晴信、甲斐にて兵を動かしております!」
氏康の表情が険しくなる。
「行き先は。」
「分かりませぬ!」
「小田原へ向かうとの噂もございます!」
ほぼ同じ頃。
渋川の上杉本陣にも、越後から早馬が届いていた。
「武田勢、動きあり!」
謙信は地図へ目を落とす。
「信玄は信濃へ来るか。」
柿崎景家が拳を握る。
「ならば、すぐに越後へ戻るべきでは。」
「まだ分からぬ。」
謙信は首を振った。
「甲斐から南へ向かうこともある。」
「信濃へ入ることもある。」
「氏康も我らも、信玄の行き先が分からぬ限り動けぬ。」
両軍は再び静観に入った。
だが、その静観は上杉軍にとって不利に働き始める。
渋川から北へ通じる街道。
上杉方の補給隊が越後方面から前線へ向かっていた。
ところが橋が壊されている。
数日前まで通れたはずの道に、倒木が横たわっている。
荷車が何台も横倒しにされ、車輪を外されたまま道を塞いでいた。
狭い場所では土が掘り返され、馬が通れぬほどぬかるんでいる。
修復を終えて進めば、次の場所では柵が組まれている。
敵兵の姿はない。
だが、確実に誰かが先回りしている。
「申し上げます!」
上杉の伝令が渋川の本陣へ駆け込む。
「街道各所で妨害を受けております!」
「敵勢は見えませぬが、橋や道が破壊され、荷車が道を塞いでおります!」
直江実綱が地図を見た。
「偶然ではない。」
「組織的な妨害です。」
さらに別の伝令が入る。
「南東より小勢が現れ、補給隊だけを襲撃!」
「護衛が向かうと、戦わずに退きます!」
「旗は。」
「那須の旗を見たとの報告がございます!」
続いて、別方面からも報が来た。
「西寄りの街道では大掾勢らしき兵が倉を押さえ、荷駄を奪っております!」
謙信は黙って地図を見つめた。
小田・北条本隊は追ってこない。
前橋に留まり、こちらへ大軍を差し向ける気配もない。
それにもかかわらず、帰路だけが少しずつ削られている。
敵の本隊と戦う機会はない。
斥候を送れば空の街道しかない。
だが、補給は遅れ、荷駄は減り、兵の疲労だけが積もっていく。
柿崎が苛立たしげに言った。
「卑怯な真似を。」
謙信は静かに首を横へ振った。
「違う。」
「これも戦だ。」
倒された荷車。
崩された道。
焼かれた小橋。
小さな妨害が、越後の大軍を少しずつ縛っている。
謙信はその先にいる若い総大将を思った。
追撃はしない。
決戦も挑まない。
それでも、長く居座ることだけは許さない。
「氏治は追ってこぬ。」
謙信は呟いた。
「だが、帰り道を戦場に変えた。」
直江実綱が尋ねる。
「いかがなされます。」
謙信はしばらく考え、やがて決断した。
「越後へ戻る。」
「武田の行き先が分からぬ以上、これ以上関東に留まる利はない。」
「兵站を削られながら長居すれば、退く時機まで失う。」
柿崎は悔しげに前橋の方角を見た。
「小田を討たずに帰るのですか。」
「討てなかったのではない。」
謙信は答えた。
「今日は、討つ益がなくなった。」
その言葉に誰も反論できなかった。
上杉軍は渋川の陣を払い、越後へ向けて北上を開始した。
その後退もまた整然としていた。
先頭が道を直し、中央が負傷者と荷駄を守り、後方では柿崎勢が敵の追撃に備える。
だが、小田も北条も大軍では追わなかった。
ただ道が壊れ、橋が落ち、時折、遠くの林から矢が飛ぶ。
越後への道のりは、最後まで氏治の手の内にあった。
数日後。
武田軍が一度南へ動き、小田原方面を窺ったとの報が入った。
だが、その直後。
尾張より急報が関東一円を駆け巡る。
今川義元、桶狭間にて討死。
東海道の情勢は一変した。
武田晴信は進路を改め、動揺する今川領へ目を向ける。
北条は小田原へ兵を戻し、上杉は信濃と越後の備えを固める。
前橋を巡る大戦は、誰かが完全に勝ったのではなく、天下の大きなうねりによって幕を閉じた。
だが、人々の記憶に残ったものがあった。
一夜にして築かれた小田の陣。
軍神の突撃を止めた銃盾隊。
関東を守り抜いた氏康。
戦場の横腹を食い破った青鬼・宇都宮尚綱。
そして。
軍神自らの突撃を、主君の目前で受け止めた赤き武者。
常陸一の宝剣。
坂東の赤鬼。
真壁幹久。
その名は兵たちの口から街道へ伝わり、宿場から城下へ、城下から諸国へと広がっていった。
前橋の戦が終わる頃には、関東一円で知らぬ者はいなくなっていた。




