赤鬼、立つ!前編
「上杉軍、動きます!」
伝令の声が本陣へ響いた。
氏康は兜をかぶり、氏治は蜈蚣切りを握る。
軍議はそこで終わった。
二人の総大将は顔を見合わせ、同時に頷く。
「参ろう。」
前橋の平野には、朝靄がゆっくりと流れていた。
利根川を背に、上杉軍が整然と前進を始める。
先頭には柿崎景家、本庄実乃。
その後方には無数の「毘」の旗が揺れている。
軍神はまだ動かない。
まずは先鋒で敵を量るつもりであった。
北条軍も柵の内側で槍を構える。
幾日も続く戦いで兵は疲れ切っていたが、誰一人として持ち場を離れようとはしない。
氏治は静かに戦場を眺めた。
「……宍戸。」
「はっ。」
「今夜だ。」
その一言だけで十分だった。
宍戸政繁は深く頭を下げる。
その夜。
月は雲に隠れ、平野は闇に包まれていた。
松明は最小限。
工兵が先頭を歩く。
その背を真壁幹久、笠間幹永率いる銃盾隊が守る。
木杭が打ち込まれる。
逆茂木が並ぶ。
柵が組み上がる。
土が積まれる。
夜が明ける頃には、昨日まで何もなかった場所に、新たな陣地が築かれていた。
上杉方の物見は目を疑う。
「申し上げます!」
「小田軍、一夜にして目前へ陣を築きました!」
謙信は馬上から静かに眺めた。
「……攻めながら城を築くか。」
その声に驚きはなく、むしろ愉悦があった。
「面白い。」
朝霧が平野を覆う。
柿崎景家が先鋒を進めた。
「敵の出方を見る。」
上杉勢が霧を裂く。
しかし、その瞬間。
「撃て!」
銃声が一斉に轟いた。
真壁の銃盾隊である。
牛革を張った大盾が壁となり、その隙間から鉄砲が火を吹く。
柿崎勢は思わず足を止めた。
「押せ!」
真壁が前へ出る。
盾が進む。
また一歩。
さらに一歩。
朝霧の中、上杉先鋒はじりじりと押し返されていった。
だが。
「……おかしい。」
水戸頼治が眉をひそめる。
「敵が少なすぎます。」
氏治も戦場を見渡す。
その瞬間、伝令が駆け込んできた。
「ご注進!」
「上杉本隊、確認できませぬ!」
さらにもう一騎。
「北条本陣!」
「上杉軍主力が北条本陣へ総攻撃!」
氏康の陣から法螺貝が響く。
謙信は先鋒を囮とし、主力を一気に南へ向けていたのである。
「宇都宮!」
氏治が叫ぶ。
「はっ!」
「結城!」
「はっ!」
「先行し、氏康殿を支えよ!」
二人は返事と同時に馬を蹴った。
青鬼が駆ける。
結城勢も続く。
氏治は本隊へ振り返る。
「真壁!」
「はい。」
「我らも前へ出る。」
「承知。」
小田本隊は築いたばかりの陣地を足場に、一気に前進を始めた。
その頃。
北条軍は激戦の最中にあった。
謙信自らが率いる主力は凄まじかった。
何重もの槍衾が北条軍へ襲いかかる。
簡易陣地が一つ、また一つと突破される。
氏康は自ら槍を執り兵を励ました。
「退くな!」
「ここが関東の踏みとどまる場所ぞ!」
そこへ。
「宇都宮勢、参る!」
青鬼が戦場へ飛び込んだ。
重騎馬が上杉軍の横腹へ突き刺さる。
さらに結城勢が乱れた戦線を繋ぎ、北条軍は辛うじて崩壊を免れる。
だが、それでも押される。
その時だった。
「真壁!」
氏治が軍配を振り下ろす。
「道を開け!」
「銃盾隊、前進!」
真壁幹久は槍を前へ向けた。
「笠間。」
「兄上。」
「我らが北条殿と殿を繋ぐ。」
「……参りましょう。」
銃盾隊が歩き出す。
走らない。
乱れない。
ただ、一歩ずつ。
鉄の壁となって。
上杉軍と北条軍の間へ、そのまま割って入る。
「撃て!」
轟音。
「前へ!」
盾が押す。
「撃て!」
また押す。
その姿はまるで燃え盛る赤い壁であった。
北条兵が思わず叫ぶ。
「何だ、あの兵は!」
「あれが小田の……!」
「赤鬼だ!」
「赤鬼が来たぞ!」
歓声が広がる。
真壁は振り返らない。
ただ前だけを見ていた。
その時。
謙信が静かに槍を向ける。
「……本陣を討つ。」
上杉精鋭騎馬が反転する。
狙いは氏治。
一直線に小田本陣へ迫る。
「殿!」
近習が叫ぶ。
氏治も刀を抜く。
その前へ、一人の男が立った。
真壁幹久である。
「兄上!」
笠間も続く。
二人はわずかな精鋭だけを率い、本隊を離れて反転していた。
敵騎馬が突っ込む。
真壁は大盾を構えた。
轟音。
馬が盾へ激突し、騎兵は宙へ投げ出される。
笠間がその槍を払い、敵を討つ。
真壁は倒れた敵将の馬へ飛び乗った。
血に染まった甲冑が朝日に燃える。
赤鬼。
その姿を見た北条兵も、小田兵も、敵である上杉兵でさえ息を呑んだ。
真壁は馬上から氏治へ叫ぶ。
「殿!」
「ここは我らが守る!」
「関東の行く末を決めるのは、殿のお役目です!」
氏治は拳を握り締めた。
その言葉に応えるように蜈蚣切りを高く掲げる。
「全軍!」
「前進!」
その号令とともに、北条、小田、宇都宮、結城の兵が一斉に前へ出た。
赤鬼が道を開き、
青鬼が敵陣を裂き、
二人の鬼が支えるその中央で、氏治は関東の未来を背負って軍勢を率いる。
前橋の平野に、新たな時代の鬨の声が響き渡った。




