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古河の決裂 — 夜襲の序章

寺の境内は朝靄に包まれ、利根の流れが遠く白く光っていた。太田道灌の本陣は瓦屋根と幟に囲まれ、兵たちの動きはどこか緩んでいる。碁盤に向かう者、酒盃を傾ける者、鞍を直す者——長いにらみ合いが人々の神経を鈍らせていた。だが縁側に座る道灌の目だけは、そうした空気に染まってはいない。彼の手には昨夜届いた古河御所の犬文がある。墨の走り、焦りの滲み。三文字だけが、紙の上で冷たく光っていた。


結城と小山が境内に現れる。甲冑の紐を締め直した二人は、新参の身でありながら古河での所作を残している。道灌は巻物を閉じ、紙を受け取ると、指先で墨の乱れを確かめるように撫でた。周囲の兵たちの囁きが一瞬止み、空気が引き締まる。


「評定が割れたか」

道灌の声は低く、縁側の影に落ちた。言葉は短いが、そこに含まれる意味は重い。結城が差し出した犬文を、彼はさらに詳しく目で追った。焦りと混乱がにじむ筆致が、裏の機会を示している。


結城は一歩前へ出て深く一礼した。

「太田道灌様、我らは古河を去り、扇谷へ参上いたしました。新参にございますが、先鋒を願い出ます。信任を得るため、行動で示したく存じます」


道灌は二人を交互に見た。結城の目は鋭く、先陣を切る覚悟が滲んでいる。小山の表情は落ち着き、兵と渡り合う術を心得ているように見えた。道灌はゆっくりと立ち上がり、境内を見渡す。碁盤の石、寝転ぶ者、酒の残り香——長いにらみ合いが生んだ油断が、そこかしこに見える。


「評定が割れた。好機だ」

道灌は短く言うと、二人に向き直った。声には計算が混じっている。

「だが新参をそのまま並べるのは危うい。扇谷の兵の信を得るには、見せ方が要る。よって配置を分ける。結城、お前は別働として先鋒を率い、敵の懐を突け。小山、お前は本陣近くに置く。扇谷の者と顔を合わせ、我らの誠意を示せ」


結城は一瞬、驚きの色を見せたが、すぐに笑みを引き締めて答えた。

「承知しました。先鋒の先導はお任せください」


小山は静かに頷き、縁側に近づいて兵たちに軽く会釈した。彼は酒の残る兵の間に入り、冗談を交わし、肩に手を置いては笑顔を返す。新参の小山が本陣近くにいることが、扇谷の者たちの不安を和らげる。道灌はその様子を、冷ややかに、しかし満足げに見つめた。


「夜の偵察で得た情報を基に、明朝お前らを先鋒に据える」

道灌は巻物を畳み、合図の方法を短く告げた。狼煙一つ、太鼓三打。伝令の動きは既に決められている。

「忘れるな。先鋒は死地を切り開く者の役目だ。小山は本陣近くで扇谷の兵の信を得よ。結城は敵のだらけを突け。互いに連絡を取り合え」


夕暮れが迫ると、結城は小勢を率いて利根の方へ下った。彼の胸には茶室で交わした約束と、古河で見た民の顔があった。小山は本陣に残り、扇谷の兵たちと顔を合わせては笑い、酒の席で軽口を叩き、警戒心を解いていく。道灌は縁側に戻り、巻物を手にして静かに夜を待った。兵たちのだらけた空気は、今や彼らの計略の一部となっている。


夜が下りると、寺の境内は静けさに包まれた。狼煙の位置が確認され、太鼓の位置が定められる。道灌は結城と小山を離して配置した判断が正しかったかを、ただ静かに見守る。古河の評定が割れたという犬文は、扇谷にとって好機であり、同時に危険でもある。だが道灌は知っている。戦は、油断した者に最も厳しい罰を与える——その冷たい確信が、彼の背筋を引き締めた。


二人の足音が夜の闇に溶ける。結城は先鋒としての道を、静かに、確かに歩み出した。小山は本陣の縁で兵たちと杯を交わしながら、明朝の合図を待つ。寺の軒先に灯がともり、幟が夜風に揺れる。道灌は巻物を胸に抱き、短く呟いた。

「よかろう。扇谷の名に恥じぬ働きをせよ」


夜の帳が下りる。古河の前で何が起きるかは、まだ誰にも分からない。ただ一つ確かなのは、今この瞬間に仕組まれた分断と配置が、やがて大きな波を起こすだろうということだった。

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