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飼い主を探す夜 — 間者を泳がせる古河

朝の利根は銀の帯を引き、薄い靄が岸辺をなぞっていた。古河の城下はまだ眠りの名残を引きずり、櫓の上から見下ろすと屋根の列が淡く揺れている。小田朝久は甲冑の紐を最後にもう一度締め直し、渡し場へ向かった。顔には疲労の影があるが、目は冷たく澄んでいる。昨夜の評定で演じた「強硬」は、今朝の行動で形だけ示されるつもりだった。


渡し場では普段通りの点検が行われ、舟は係留され、民の避難を促す声が低く響く。朝久は大声を張らず、静かに兵を整えさせた。彼の指示は守備のために見えるが、その一つ一つに夜襲のための細工が織り込まれている。渡し板の外し方、櫂の包み方、舟の出し方――音を立てずに動くための準備が淡々と進む。


午前、朝久は小勢を率いて東岸へ打って出した。にらみ合いの長さが敵の緊張を溶かしているかを確かめるための短い試みだ。向こうの陣は思いのほか静かだった。幟は揺れているが、火の番はまばらで、酒盃を傾ける者の姿も見える。にらみ合いに慣れた兵の目は鈍り、警戒は薄れていた。


先鋒と敵の間で小競り合いが起きる。槍先が交わり、矢が朝の空に散る。だが相手の反応は鈍く、まとまった突撃には至らない。叫び声は上がるがすぐに収まり、混乱は小さな波で終わる。朝久は前線で状況を見渡し、撤収の合図を出した。兵を深追いさせず、損耗を避ける。朝の打ち出しは敵の警戒を測り、油断を誘うための試しに過ぎなかった。


引き上げる所作も演出の一部だ。旗はゆっくりと下げられ、渡し場では民の避難を促す声が上がる。見物人や伝令が目にするのは守備のための撤退であり、勝敗を決するほどの動きではない。だがその背後で、夜に向けた歯車は静かに回り続けている。


夕暮れ、城内は再び忙しさを取り戻した。渡し板は夜に備えて微妙に位置を変えられ、舟は普段の係留位置から隠されるように移された。朝久は櫓に上がり、利根の向こうにちらちらと見える上杉の陣を見据えた。だらけた空気は確かにある。だが彼はそれを過信しない。懐から小さな笛を取り出し、指先で音を確かめる。合図は低く短く、闇に紛れるように設計されている。


帰路、渡し場の堤で犬がこちらを窺っているのを見つけた。首には小さな包みが紐で括り付けられている。犬は人を恐れぬ様子だが、どこか落ち着かない。朝久は足を止め、膝を曲げて手を差し伸べた。犬は一瞬警戒したが、やがて鼻先を差し出し、紐をほどかせた。包みの中には走り書きの紙片が一枚。墨は滲み、急ぎの筆致が見て取れる。


紙には、古河公方周辺に「間者」がいるという断片的な報告があった。見張りの位置、夜の動き、幟の並び方――犬を使った伝達は古くからある手口だ。城内のどこかから情報が外へ流れている。朝久は紙を胸に押し当て、顔を引き締めた。茶室で詰めた芝居の一部が、現実の脅威と結びついたのだ。


側近が捕縛の声を上げようとしたとき、朝久は静かに手を上げた。

「飼い主を見つけるぞ」


言葉は短いが重い。追い詰めて白状させるのではない。間者を生かし、逆に利用する。情報の通路を掌握する者が戦局を動かす。朝久は犬の首輪や紐の結び目を確かめ、包みの紙質を指先でなぞった。粗末な紐だが、結び方には癖がある。誰かが急いで結び、急いで放った痕跡だ。


まずは確証を得るふりをして、渡し場の小頭を呼び出した。城の裏手、月明かりの下での対面だ。男は恐怖と後悔に震え、家族を守るために小さな情報を売っていたと白状した。朝久は厳しく問いただすのではなく、選択肢を差し出す。命を奪う代わりに、家族を守る代わりに、偽の情報を運べ――と。


偽情報は真実味を帯びさせつつ、上杉の注意を一点に集中させるように練られた。夜半に小さな動きがある、渡しは縮小される、扇谷の側面に注意を払え――その断片を持たせる。だが利用は単純な操りではない。朝久は間者を泳がせる網を細かく張った。男の行動は密かに監視され、伝達経路には朝久側の目が差し込まれる。偽情報が向こうへ届く過程で、どの筋が確実に動くか、どの将がそれを信じやすいかを見定めるのだ。


佐兵衛と名乗る渡し場の者は、朝久の差し出した包みを受け取り、震える手で闇へと消えた。包みの中には偽情報の紙片と、家族を守るための金が入っている。男が運ぶ断片はやがて上杉の耳に届き、向こうは夜半の守りを厚くするだろう。だがその厚みこそが、朝久の罠を深くする。


その後も古河側は一日、二日と小さな出撃を続けた。表向きは「積極論を示す」ための打ち出しだが、実際は敵の反応を測るための試行である。


一日目は軽い押し合い。敵の見張りがどの程度反応するかを測る。


二日目は夜間の偵察を増やし、見張りの交替や酒宴の有無を再確認する。


連日の小競り合いは敵の警戒を分散させ、古河の兵の緊張を保った。さらに、佐兵衛が運ぶ情報が一貫して「らしく」見えることで、上杉側の情報網は徐々にそれを信頼し始めた。信頼が深まるほど、朝久の仕掛けは効力を増す。


夜が深まると、朝久は茶室の仲間を集め、低い声で最終確認をした。結城は先鋒の動きを、那須は側面の奇襲を、宇都宮は山影の伏兵をそれぞれ再確認する。小山は本陣近くで扇谷の兵の信を固める役目を続ける。朝久は短く告げた。


「間者は泳がせる。向こうが信じるほど、我らの罠は深くなる。だが油断はするな。網の目を緩めるな」


利根のほとりで小さな火花が散り、上杉の陣は慌てて甲冑を締め直した。扇谷の兵は側面の動きを警戒する。だが朝久の別働隊は、敵の注意が向いた隙に確実に利根東岸へ橋頭堡を築きつつあった。間者を泳がせることで得た情報は、戦局の一角を確かに動かしている。


夜明け前、東岸の小さな旗を見つめる朝久の顔には勝ち誇る笑みはない。間者を利用することは倫理の境界を踏む行為だ。だが戦は常に境界を押し広げる。彼はその重さを胸に刻み、次の局面へと歩を進めた。間者は今、敵の中で生きている。泳がせることで得られる情報と、そこから生まれる混乱を、朝久はこれからも冷静に操るつもりだった。

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