湖上の学び舎 ― 青龍寮の夜 ―
龍宮館での語らいを終える頃には、霞ヶ浦は夕闇に包まれていた。
氏治と治彦は、大掾政景に案内され湖畔の船着き場へ向かう。
「殿。今夜は青龍寮をご案内いたします。」
小舟へ乗り込み湖面を渡ると、やがて潮来の蔵屋敷へ辿り着いた。
桟橋には一隻の淡水航行用小型ガレオンが静かに停泊している。
筑波級二番船――『宝篋』。
潮来を拠点とする青龍寮の船であった。
「殿、お待ちしておりました。」
船番の寮生たちが一斉に頭を下げる。
氏治と治彦が乗り込むと、大掾政景は甲板の中央へ立った。
「点呼!」
「一班、全員!」
「二班、異常なし!」
「三班、全員!」
「よし。」
船は今夜は停泊したまま宿となる。
甲板では操舵方が船を固定し、炊事方は夕食の支度を始める。
医務方は試合でできた擦り傷を手当てし、会計方は今日の商いを帳簿へ記していた。
教師が命じることはない。
料理、航海、医務、荷役、商い。
すべてを寮生自身が役割を持って運営していた。
一方、岸では荷役方が蔵屋敷へ荷を運び込んでいた。
龍宮館へ送る商品。
今日の馬庭球で使った鞍や槌の手入れ。
潮来の蔵屋敷は倉庫であり、宿泊所でもあり、土浦から少し離れた青龍寮生たちだけの隠れ家でもあった。
「鹿島は海外交易の玄関口です。」
大掾が説明する。
「ですが兵学館や土浦へ送る荷まで毎回鹿島へ集めるのは遠すぎます。」
「そこで潮来へ一度荷を集め、ここから各地へ送っています。」
仕事が終わると食堂へ鐘が鳴る。
炊事方が大鍋を運び込み、白い飯へ黄金色の煮込みをたっぷりとかけていく。
異国の香辛料が香る料理だった。
「シャムよりさらに西の家庭料理だそうです。」
「船乗りは曜日を忘れぬよう、毎週決まった曜日に同じ料理を食べる習わしがあると聞きました。」
「そこで青龍では毎週金曜日にこの料理を食べています。」
牛乳へ発酵乳と果実を加えた飲み物も配られる。
「こちらはラッシーというそうです。」
治彦は料理を見つめ、小さく笑った。
「僕のいた場所では……これを『カレー』と呼んでいました。」
「カレー……。」
寮生たちは何度も口にする。
一人が首を傾げた。
「治彦教官のおられた場所は、シャムより西だったのですか。」
治彦は少し困ったように笑う。
「まあ、遠い場所だったよ。」
「そこでも親しまれていた料理なんだ。」
その日以来、青龍寮では金曜日を「カレーの日」と呼ぶようになった。
夕食を終えると、大掾が言う。
「それでは自由時間です。」
遊戯室では投げ矢や、船乗りから伝わった鉄球遊びに歓声が上がる。
船尾の酒場では、甘酒や蜜柑果汁、果肉入りの林檎果汁、牛乳、ラッシー、茶を片手に語り合う者たちが集まっていた。
酒場というより喫茶店のような空間だった。
氏治が甲板へ出ると、大掾が釣り竿を持って近づいてきた。
「殿、少しお付き合い願えますか。」
「停泊した夜は釣りをするのが私の楽しみなのです。」
「よかろう。」
二人は船縁へ腰を下ろし、静かに釣り糸を垂れた。
月明かりが湖面を銀色に染める。
しばらくして氏治が口を開いた。
「政景。」
「一つ聞きたかった。」
「なぜ青龍寮を船の寮にした。」
大掾政景は釣り糸を見つめたまま、ゆっくりと語り始めた。
「祖父は今も大掾家の当主です。」
「父は家督を継げず、殿の陪臣として働いております。」
「私は幼い頃から、大人ばかりに囲まれて育ちました。」
「祖父も父も家臣たちも皆、私を大切にしてくれました。」
「ですが、その優しさは少々過保護でもありました。」
「危ないから駄目。」
「家を継ぐ者だから駄目。」
「好きな場所へ行くことも、自分で失敗することも、なかなか許されませんでした。」
夜風が帆を揺らす。
大掾は寂しげに笑った。
「だから私は、自立したかったのです。」
「誰かに守られるだけではなく、自分の力で生きてみたかった。」
「そして――。」
釣り糸の先を静かに見つめる。
「友が欲しかった。」
「一緒に笑い、一緒に馬鹿なことをして、一緒に危険へ飛び込める仲間です。」
「学生でいられる間くらいは、仲間と好きな場所へ行き、知らない景色を見て、知らない人と出会ってみたい。」
「そのためには、自分たちで船を持ち、自分たちで商いをし、自分たちの力で船を動かさなければならない。」
「だから青龍は、商いを学びます。」
「商いは経済的な自立の証。」
「船は自由への象徴。」
「そして青龍寮は、仲間とともに未来へ漕ぎ出すための学び舎なのです。」
氏治は何も答えなかった。
ただ静かに釣り糸を垂れ、月明かりに揺れる湖面を見つめていた。
夜の霞ヶ浦には、二人の釣り糸と、小さく揺れる波の音だけが静かに響いていた。




