箱根の東西――家康、昨日の敵に商いを求む
箱根の東西――家康、昨日の敵に商いを求む
天正四年二月。
徳川家康から送られてきた使者の話は、単なる国境の安定だけでは終わらなかった。
使者は氏治の前で深く頭を下げると、さらに一歩踏み込んだ。
「我が主は、小田殿と徳川との間に、もはや争う理由はなしと考えております」
氏治は黙って聞いた。
「箱根を境とすることは神前にて定まりました。ならば次に考えるべきは、その境をいかに穏やかなものとするかでございましょう」
「穏やかに、か」
「はい」
使者はそこで、家康から預かった本題を切り出した。
「三河守は、小田殿との経済上の誼を結びたいと望んでおります」
氏治は少し目を細めた。
経済的な同盟。
軍を貸し借りするものではない。
互いの敵と戦う約束でもない。
商人を通す。
荷を通す。
市場を結ぶ。
必要なら港も使わせる。
箱根を軍事的な境界にしながら、その境界を商いによって開こうというのである。
氏治は少し奇妙な気持ちになった。
徳川家康は、いまや小さな大名ではない。
三河を持つ。
遠江を持つ。
そして今回の戦で駿河まで得た。
東海道の広い範囲を押さえる大大名になった。
本来なら、もっと胸を張ってよい。
それなのに――
家康は小さくなった。
小さく、小さくなって氏治の前へ出てきた。
北条を叩ききれなかった。
小田を押し切れなかった。
箱根も取れなかった。
戦争を主導して大きな犠牲を出しながら、甲斐を得たのは織田である。
信長はそこへ滝川一益を置いた。
徳川が得たのは駿河。
それでも家康は、その不満を一言も氏治へ漏らさない。
織田への愚痴もない。
戦争への恨み言もない。
ただ頭を下げ、
――これから仲良くしたい。
そう言ってくる。
氏治には、その姿がかえって不気味なほどだった。
「三河守殿も、随分と思い切られたものだ」
氏治が言うと、使者は笑った。
「我が主に申させれば、戦が終わったからこそ、とのことでございます」
「なるほどな」
氏治は少し考えた。
だが、断る理由はなかった。
小田にとって三河との商いは利益になる。
駿河まで徳川領になった以上、箱根の向こう側は広大な徳川領である。
そこへ坂東の品を流せる。
逆に三河、遠江、駿河の品も入ってくる。
海路もある。
東海道もある。
戦争を再開するつもりがないのなら、商人を止め続ける意味も薄い。
「よかろう」
氏治は答えた。
「まず三河との商人の往来を許そう」
使者の顔が明るくなる。
「ありがたき――」
「ただし」
氏治は手を上げた。
「一度にすべてを開くつもりはない」
使者が姿勢を戻した。
「まだ戦のほとぼりも冷めておらぬ」
氏治の言うことにも道理があった。
二か月前まで殺し合っていたのである。
箱根では砦を挟んで向かい合った。
三河と遠江には結城勢が上陸した。
海では大掾幹康の艦隊が徳川方の船を追い散らした。
北では新田勢が甲斐を脅かした。
その記憶は兵にも民にも残っている。
いきなり、
今日から徳川商人は自由に通ってよい。
小田商人も好きに三河へ行け。
では混乱も起きる。
「まず限られた商人から始める」
氏治は言った。
「通行の仕組みを整え、問題がなければ少しずつ広げよう」
「段階的に、ということでございますか」
「そうだ」
氏治は頷いた。
「急ぐ話でもあるまい」
すると使者は、そこで少し困ったように笑った。
「実は、そのことについても三河守より言葉を預かっております」
「なんだ」
使者は家康の言葉をそのまま伝えた。
「『いえいえ、もはや二月も前のことにて』と」
氏治が瞬きをした。
「二月?」
「はい」
使者も笑っている。
「『誼を結ぶのに、早いも遅いもない。されど、早い方が徳であろう』と」
氏治はしばらく黙った。
そして、
「ははっ」
とうとう笑ってしまった。
「三河守殿は、そう申したか」
「左様にございます」
「二月前まで殺し合っておったではないか」
「我が主にとっては、すでに終わったことでございます」
「ずいぶん早く終わらせたものだな」
「戦を終えると神前で誓いましたゆえ」
使者はさらりと言った。
「ならば終わったのでございましょう」
氏治はまた笑った。
なるほど。
これが徳川家康という男なのだろう。
悔しくないはずがない。
むしろ誰より悔しいはずである。
北条を追い詰めた。
あと少しだった。
小田が介入した。
箱根で止まった。
そして信長に説得され、軍を退いた。
甲斐まで織田に持っていかれた。
それでも家康は、その感情と政策を分けていた。
悔しいから商売をしない。
腹が立つから国境を閉じる。
そんなことをして得をする者はいない。
だったら昨日の敵と今日から商売すればよい。
しかも早い方が得なら、早くやる。
氏治は感心したように言った。
「分かった」
「では――」
「こちらも急ごう」
使者が深く頭を下げた。
「ただし、いきなり無制限にはせぬぞ」
「無論にございます」
「まず商人を選ぶ。箱根を通る者には証文を持たせる。駿河、三河へ行く者について徳川方にも身元を伝える」
「こちらも同様にいたしましょう」
「揉め事が起きた場合も、すぐ兵を出さぬ」
「双方の役人にて先に話をつける」
「それでよい」
戦場では決められなかったことが、次々と決まっていった。
氏治は最後に使者へ言った。
「三河守殿へ伝えてくれ」
「は」
「小田も、三河と争う理由はないとな」
使者は深々と頭を下げた。
こうして箱根は、奇妙な場所になった。
つい二か月前まで、東西から大軍が睨み合っていた。
西から織田・徳川軍が砦を抜こうとし、
東では真壁幹久、笠間幹永らが待ち構えていた。
いま、その同じ道を商人が通ろうとしている。
最初は少数だった。
証文を持った商人だけ。
荷も改める。
武器の大量輸送は認めない。
国境の役人同士も頻繁に連絡を取る。
慎重ではあった。
だが道は開いた。
そして徳川家康は、その道を開くことを急いだ。
三河。
遠江。
駿河。
その向こうには坂東がある。
戦って取れなかったなら、商いでつながればよい。
少なくとも今は、それでよい。
氏治もまた、その申し出を拒まなかった。
箱根という境界が決まったことで、小田と徳川は初めて本当の意味で隣国になったのである。
戦争が終わって、まだ二か月。
家康は笑って言った。
誼を結ぶのに早いも遅いもない。
ならば、早い方が徳である。
東海道を押さえるほど大きくなった徳川家康は、勝ち誇るどころか、かえって小さく小さく身を低くした。
だが氏治はまだ知らなかった。
それは徳川が弱くなった姿ではない。
悔しさを飲み込み、次に力を蓄えるための家康なりの構えであった。




