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天正四年二月――家康からの使者

天正四年二月――家康からの使者


天正四年、一五七六年二月。


鶴岡八幡宮で神前の誓いを交わしてから、まだひと月ほどしか経っていなかった。


箱根の兵は退き始め、捕虜の交換も進み、東海道にはようやく戦の終わった気配が戻りつつある。


甲斐は織田。


駿河は徳川。


箱根から東へ織田・徳川は侵さず、小田・北条も西へ兵を進めない。


戦場では決着をつけきれなかったものを、最後は神前の誓いによって納めた。


そんな二月、小田氏治のもとへ意外な使者がやってきた。


差出人は――徳川家康だった。


---


氏治は書状を受け取ると、少し不思議そうに裏表を眺めた。


「徳川殿からか」


戦が終わったばかりである。


しかも今回、最も激しく北条を追ったのは徳川だった。


氏治自身、徳川と直接戦うために戦を始めたわけではない。


北条の敗勢を見て介入し、小山、新田、結城らを送り、最後には小田原へ入って氏邦を支えた。


だが結果として、徳川から見れば小田は北条を救った勢力である。


あと一歩だった。


北条軍を追い詰めた。


氏政も討死した。


駿河から相模へ押し込んだ。


箱根まで来た。


それでも――叩ききれなかった。


小田が入ったからである。


箱根の砦を固められた。


海を閉じられた。


甲斐には新田と武田信繁が迫り、三河・遠江には結城朝基が上陸した。


徳川はそこで止まらざるを得なかった。


家康に悔しさがないはずがない。


氏治にも、それくらいは分かっていた。


それでも使者は礼を尽くして頭を下げた。


「我が主、徳川三河守より、小田殿へ御挨拶申し上げたく参りました」


「うむ」


氏治は座を勧めた。


「戦は終わった。まずは無事に帰られたこと、何よりであったと三河守殿へ伝えてくれ」


「ありがたきお言葉」


使者はさらに頭を下げる。


だが氏治は、その向こう側にいる家康の胸中を想像していた。


---


家康には、もう一つ納得できないものがあった。


甲斐だった。


今回の戦で、徳川は率先して血を流している。


三河衆が戦った。


遠江から兵を出した。


北条との因縁を抱え、正面から押した。


その間に織田軍も動き、甲斐へ入り込んだ。


そして講和後――


甲斐は織田領となった。


信長はそこへ滝川一益を配置した。


徳川は駿河を得た。


それ自体は大きな戦果である。


だが家康から見れば、釈然としないものは残る。


戦を始めたのは自分たちである。


大きな犠牲を払ったのも自分たちである。


北条と正面からぶつかり続けたのも三河衆である。


それなのに最後には、織田が甲斐を得た。


しかも自分たちが箱根攻略を望んだとき、その信長から、


これ以上東へ進めば再起不能になりかねない。


十年畿内へ帰れなくなる覚悟があるのか。


そう諭されて戦を終えた。


理屈では分かる。


信長の判断が間違っていたとも思わない。


それでも――


悔しいものは悔しい。


家康は、それを表には出さなかった。


鶴岡八幡宮でもそうだった。


氏治は何となく感じ取っていたが、家康自身は最後まで態度を崩していない。


そして二月になっても、その姿勢は変わらなかった。


むしろ家康は、感情とは反対の方向へ動き始めた。


---


「三河守殿は」


使者が言った。


「先日の戦について、これをもって旧怨を納めたいとのことでございます」


氏治は静かに聞いた。


「鶴岡の神前にて互いに侵さぬことを誓いました以上、徳川としてもこれを守る」


「それは我らも同じだ」


「は」


使者は続ける。


「されど我が主は、ただ兵を向けぬというだけでは、真の安寧とは申せぬとも考えております」


氏治が少し眉を上げた。


「ほう」


「箱根を境と定めたからこそ、今度はその境を挟んで互いを知るべきではないか、と」


氏治は思わず笑った。


「面白いことを申す」


昨日まで箱根を越えようとしていた男が、今度は箱根を境に付き合おうと言っている。


だが氏治には、その考えが嫌いではなかった。


国境とは、敵と敵を隔てる線にもなる。


同時に、隣国と隣国が接する場所にもなる。


「三河守殿は、わしと付き合いたいと申すか」


「左様にございます」


使者は慎重に言葉を選んだ。


「小田殿と徳川が直接争わねばならぬ理由は、もはやございませぬ」


その言葉には、家康らしい現実感があった。


北条とは戦った。


小田とも戦場では敵対した。


だが小田と徳川の間に、代々積み重なった領土争いがあるわけではない。


今回の戦争によって、むしろ初めて両者の境界が明確になった。


駿河。


箱根。


相模。


そこで線を引いた。


ならば、その線を安定させるために関係を作る。


---


氏治は尋ねた。


「具体的には何を望んでおる」


「まずは使者の往来を絶やさぬこと」


「うむ」


「国境にて何か問題が起きた場合、すぐ兵を出すのではなく、互いに問い合わせること」


「それもよい」


「商人や旅人についても、互いの領内で無用な疑いを受けぬよう、いずれ取り決めを作りたいとのことでございます」


氏治は頷いた。


戦争直後としては、かなり踏み込んでいる。


だが家康の意図も見えてきた。


箱根を軍事境界にするだけでは危うい。


何か事件が起きるたび、


「小田が攻めてきた」


「徳川が約定を破った」


となれば、また戦争になる。


だから連絡路を作る。


氏治は少し考えてから言った。


「よかろう」


使者が顔を上げた。


「わしも三河守殿とは、もう少し話してみたいと思っていた」


これは本心だった。


箱根では敵として向き合った。


鶴岡では神前に並んだ。


だが互いについて、まだほとんど知らない。


「ただし」


氏治が言った。


「北条を外して話を進めることはせぬぞ」


「承知しております」


「箱根より東は北条とも関わる。氏邦殿にも話を通す」


「無論にございます」


その答えを聞いて、氏治は満足そうに頷いた。


---


使者が退出したあと、氏治はもう一度家康の書状を開いた。


丁寧だった。


敗戦の恨みなど、一文字もない。


織田への不満も当然書いていない。


甲斐についても触れていない。


ただ、


今後、隣国として交誼を深めたい。


その意思だけが記されている。


氏治は書状を畳んだ。


「……狸とは、こういう男を申すのかの」


まだ後世の家康を知る者はいない。


だから氏治も、半ば冗談として呟いただけだった。


だが家康の動きは実に現実的だった。


悔しい。


北条を叩ききれなかった。


小田に止められた。


三河衆が血を流した。


それでも甲斐は織田が取った。


不満はある。


それでも力が足りない。


ならば、いま敵を増やす理由はない。


むしろ箱根の向こうにいる小田氏治と付き合う。


そして徳川自身が力を蓄える。


家康は感情を捨てたわけではない。


感情を胸の奥へしまったのである。


氏治はそこまで見抜いていたわけではなかった。


ただ、箱根で最後まで戦おうとしていた家康が、わずかひと月後には使者を寄越してきた。


その変わり身には、少なからず感心していた。


氏治は近習へ命じた。


「返書を書く」


「は」


「三河守殿へ伝えよ」


少し考える。


「箱根で敵として出会い、鶴岡でともに戦を納めた。ならば次は、隣人として会おう――とな」


こうして一五七六年二月。


箱根を挟んで殺し合ったばかりの小田と徳川の間に、細い一本の道が開かれた。


それはまだ同盟ではない。


友好とも呼びきれない。


互いに腹の内をすべて見せてもいない。


家康の胸には悔しさが残り、


氏治もまた、それを薄々感じている。


だからこそ奇妙な関係だった。


昨日まで敵だったからこそ、互いの力を知っている。


そして互いの力を知ったからこそ――


徳川家康は、箱根の向こうにいる小田氏治を、これから無視することのできない隣人として見始めていた。

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