鶴岡八幡宮――神前に戦を納む
鶴岡八幡宮――神前に戦を納む
天正四年、一五七六年正月。
箱根神社での停戦会談を経て、織田・徳川・北条の三者は鎌倉へ入った。
向かった先は、鶴岡八幡宮。
ここで行われるのは、単なる領土交渉ではなかった。
箱根ですでに条件は詰められている。
戦闘を停止すること。
互いに一定期間休戦すること。
箱根を境として、これより東西を互いに侵さないこと。
捕虜を交換すること。
そして領土については――
甲斐を織田。
駿河を徳川。
これを今回の戦の結果として認める。
残るのは、その約定を人と人との間だけで終わらせないことだった。
---
鶴岡八幡宮では、神道の作法に則って式が整えられた。
武装した軍勢を境内へ並べて威を競う場ではない。
ここまで戦ってきた者たちが神前に進み、戦を納めるための場である。
身を清める。
神前へ進む。
それぞれが礼をする。
祝詞が奏上されるなか、戦で死んだ者たちのことも思われた。
北条氏政。
駿河から箱根までの退却戦で倒れた北条兵。
それを追った織田・徳川の兵。
救援に入り倒れた小田方の兵。
三河、遠江の沿岸。
甲斐。
箱根。
海。
戦場はあまりにも広がっていた。
そのすべてを、ここで納める。
やがて三者が神前に進んだ。
織田。
徳川。
北条。
そして、この講和を実際に成立させるために小田氏治も立ち会った。
誓いは明確だった。
今回の戦闘をこれにて納める。
互いに休戦する。
定めた境を越え、互いの領国を侵さない。
捕虜を返し、再びこの戦を理由として兵を起こさない。
人に対してだけではない。
神に対して誓う。
だからこそ、後から都合よく言葉を変えることはできない。
氏治も静かに頭を下げた。
戦が終わる。
ようやくである。
だが――
氏治の心に、ほんの小さな引っ掛かりがあった。
甲斐は織田。
駿河は徳川。
その割り振りである。
表情には出さなかった。
ここで異を唱えるほどのことでもない。
もともと織田・徳川側が戦で得た領土であり、誰がどちらを領有するかは基本的には彼らの問題だった。
それでも氏治は静かに思った。
――甲斐が織田か。
徳川は駿河。
箱根を取りたがっていた徳川が、結局得たのは駿河まで。
対して織田は甲斐を押さえる。
信長と家康の間でどのような話があったのか、氏治にはすべては分からない。
だが少なくとも、徳川にとって完全に気持ちのよい決着ではあるまい。
家康の顔には何も出ていなかった。
いつものように静かである。
だから氏治も何も言わなかった。
神前で他家の内情を詮索する必要はない。
今日は戦を終える日なのだ。
---
そして氏治がもう一つ気になったのは、自分のすぐ近くにいる北条氏邦だった。
氏邦は、以前とは立つ場所が変わっていた。
ほんの少しである。
だが氏治には分かった。
かつて北条と小田は同盟者だった。
互いに兵を出し合う。
互いの領国を尊重する。
婚姻によって結ばれてはいるが、どちらかがどちらかに従う関係ではない。
ところが今日の氏邦は――
氏治より一歩後ろにいた。
偶然ではなかった。
氏治が動けば氏邦が従う。
氏治が神前へ進めば、その後ろから進む。
氏治が止まれば止まる。
まるで小田家の家臣のように、傅いている。
式の途中である。
氏治は振り返らなかった。
何も言わない。
だが、気づいてしまった。
神前での誓約が進み、北条氏邦が改めて氏治へ頭を下げた。
「小田殿」
小さな声だった。
「これより北条のこと、なお一層お頼み申し上げる」
氏治は氏邦を見る。
「氏邦殿」
氏邦は続けた。
「早川殿を頼りとうございます」
氏治の正室、早川殿。
北条と小田を結んできた血筋である。
そして氏治と早川殿の間には、藤と桐という二人の子がいる。
氏邦は、その二人にも目を向けていた。
「藤殿、桐殿」
氏邦は静かに言った。
「いずれ、この二人にも北条の未来を託したく存じます」
氏治はすぐには返事をしなかった。
氏邦は北条を捨てると言っているのではない。
北条家を小田へ明け渡すとも言っていない。
だが意味は重かった。
氏政を失った。
軍勢も大きく失った。
駿河を失った。
箱根まで押し込まれた。
北条単独では、もはや以前のように立つことが難しくなっている。
だから氏邦は小田との外戚関係を、単なる同盟以上のものとして求め始めていた。
早川殿を頼る。
その子である藤と桐へ、北条の将来を託す。
それは北条が生き残るための選択だった。
氏邦は、さらに一歩下がった。
そして傅いた。
氏治は思わず氏邦を見た。
――そこまでせずともよい。
そう言いかけた。
だが、神前である。
祝詞が続いている。
式次第も進んでいる。
ここで氏邦を立たせ、北条と小田の関係について議論を始めるわけにはいかない。
氏治は何も言わなかった。
ただ前を向いた。
その沈黙のまま、式は進んだ。
やがて最後の礼を終える。
戦は終わった。
甲斐は織田へ。
駿河は徳川へ。
箱根から東へ、織田・徳川は入らない。
北条と小田も西へ兵を進めない。
捕虜は返される。
海上封鎖も解かれる。
新田も甲斐への侵入を止める。
結城も三河・遠江から引き揚げる。
長く続いた戦争は、ようやく神前で納められた。
氏治は鶴岡八幡宮を出る前に、一度だけ振り返った。
信長がいる。
家康がいる。
氏邦がいる。
戦争の前と同じ顔ぶれでありながら、その関係はもう同じではなかった。
織田は甲斐を得た。
徳川は駿河を得た。
北条は相模を守った。
小田は坂東への侵入を食い止めた。
表だけ見れば、それぞれに戦果がある。
だが氏治には、それ以上に大きな変化が見えていた。
氏邦が、自分より一歩後ろを歩いている。
氏治はそれを命じていない。
望んでもいない。
それでも氏邦は、そこを自分の立つ場所として選んでいた。
氏治は何も言わず歩いた。
鶴岡八幡宮で今日、終わったものは一つの戦争だった。
だが同時に――
氏治はその神前で、
長く肩を並べてきた同盟者が、自ら一歩後ろへ下がり、家臣へと変わっていく瞬間を見てしまった。




