天正四年正月・箱根神社の停戦会談――戦を鶴岡の神前へ預ける
天正四年正月・箱根神社の停戦会談――戦を鶴岡の神前へ預ける
天正四年――一五七六年正月。
箱根の山々には冬の冷気が満ちていた。
砦を守る小田方も、その西に陣取る織田・徳川方も、大きな攻撃を仕掛けないまま年を越した。
だが戦が終わったわけではない。
箱根では真壁幹久、笠間幹永、宍戸らが守りを固め、その後方には小山勢が控える。
北では新田勢が上州へ戻り、武田信繁との合流を進めている。
南では坂東北方・東方両艦隊が海上を押さえ、結城朝基の軍勢は三河・遠江沿岸を脅かしている。
このまま春を迎えれば、戦は再び大きく動く。
その前に織田信長が動いた。
小田原へ使者を飛ばしたのである。
求めたのは――講和だった。
---
信長が提示した条件は、意外なほど簡潔だった。
第一に、双方が戦闘を停止する。
まず停戦し、その後一定期間の休戦に入る。
第二に、箱根を境として東西を分ける。
箱根より西については、今回織田・徳川方が獲得した甲斐・駿河の領有を小田・北条方が認める。
その代わり、織田・徳川方は箱根から東へ進まない。
相模へ侵攻せず、小田原を攻めず、それより東の坂東へ兵を入れない。
第三に、双方が抱えている捕虜を交換する。
これによって、今回の一連の戦を終わらせたいというのである。
会談の場所として選ばれたのは――
箱根神社。
両軍が睨み合う箱根そのものにありながら、どちらか一方の城ではない。
戦場のただ中であり、同時に武門から崇敬されてきた社でもある。
そこでまず、戦を止めるための話をする。
信長の使者は、その旨を小田原へ伝えた。
---
小田原城では、すぐに評定が開かれた。
小田氏治は書状を読み終えると、しばらく何も言わなかった。
北条氏邦がその様子を見ている。
周囲の者たちは当然、氏治の返答を待った。
甲斐と駿河を認めるのか。
箱根を境とするのか。
戦を続けるのか。
氏治は書状を畳むと、まず氏邦を見た。
「氏邦殿」
「は」
「これは、わしが一人で決める話ではない」
氏邦が少し意外そうな顔をした。
氏治は続けた。
「この戦は、もとは北条と徳川が始めた戦だ」
小田が途中から深く関わったことは間違いない。
小山、新田、結城を送り、箱根へ真壁らを入れ、海軍まで動かした。
いまや戦争全体における小田の軍事的比重は極めて大きい。
それでも氏治は、自分が北条に代わって勝手に講和条件を決めることを拒んだ。
「わしが小田原にいるのも、北条の主になるためではない」
氏治は氏邦を見る。
「氏邦殿を補佐し、北条方を支えるためだ」
氏邦は黙って聞いていた。
「ゆえに、まず氏邦殿の意見を聞く」
氏治は信長から送られてきた条件を氏邦の前へ置いた。
「甲斐、駿河を手放すことになる」
それは北条にとって軽い話ではない。
氏政まで失っている。
多くの兵も失った。
そのうえ領土まで失う。
「されど箱根から東には入れぬと、織田・徳川は申しておる」
氏邦は書状を見た。
氏治は急かさなかった。
「北条の戦だ。北条の意見を先に聞こう」
しばらくして氏邦は顔を上げた。
「……まず、箱根で話を聞きましょう」
氏治は頷いた。
「それがよい」
---
正月。
箱根神社で会談が開かれた。
戦場のすぐ近くとは思えぬほど、境内は静かだった。
だが山の西には織田・徳川軍。
東には小田・北条軍。
少し離れれば武装した兵たちが互いを警戒している。
ここで一度でも交渉が崩れれば、再び戦が始まる。
織田方から、改めて条件が示された。
「まず停戦」
氏治は聞く。
「その後は」
「休戦とする」
「期間は後ほど詰める、と」
「左様」
次に領土。
「甲斐、駿河については、織田・徳川方の領有を認めていただきたい」
北条方の表情が険しくなる。
「その代わり」
織田方の使者は続けた。
「箱根より東へは進まぬ」
氏治は確認した。
「相模へ兵を入れぬ」
「入れぬ」
「小田原を攻めぬ」
「攻めぬ」
「坂東へも入らぬ」
「その条件を休戦の根幹とする」
そして捕虜交換。
互いに抱えている捕虜を整理し、順次返還する。
氏治は一通り聞き終えた。
条件そのものには、一定の合理性がある。
織田・徳川は甲斐と駿河という戦果を得る。
北条はそれを失う代わりに、本国である相模を守れる。
小田も坂東への侵攻を止められる。
そして何より、これ以上兵が死なない。
だが氏治は、その場で承諾しなかった。
「一つ申しておく」
皆が氏治を見る。
「この場で、わしがすべてを決めることはせぬ」
織田方の使者が尋ねる。
「なぜでございましょう」
「先ほども申した通りだ」
氏治は氏邦へ目を向けた。
「もとは北条と徳川の戦。わしは小田の当主ではあるが、北条の当主ではない」
そして氏邦を示した。
「北条方については氏邦殿の意見を尊重する」
氏邦も頷いた。
信長が氏治との直接交渉を求めた理由は分かる。
実際、現在の軍事力を考えれば氏治と話さなければ戦は止まらない。
だが氏治は、それを理由に北条の頭越しに国境を決めることを避けた。
「ただし」
氏治は続けた。
「条件がまとまるのであれば、わしから一つ求めたい」
「何でございましょう」
氏治は答えた。
「ここで紙に書いて終わりにはせぬ」
一同が静かになる。
「箱根は、戦を止めるための話をする場所とする」
氏治は箱根神社の社殿を見た。
「だが最終的に領土を定め、互いに兵を退き、戦を終えるのであれば――」
少し間を置いた。
「鶴岡八幡宮へ参ろう」
氏邦が氏治を見る。
「鶴岡へ?」
「そうだ」
鎌倉。
鶴岡八幡宮。
坂東武士にとって、その意味は大きい。
氏治は言った。
「織田」
「徳川」
そして氏邦を見る。
「北条」
三者である。
「三者そろって神前に立つ」
氏治の声が境内に響いた。
「甲斐と駿河について認めるのであれば認める。箱根を境とするのであれば、そう誓う。捕虜を返すのであれば返す」
「そして――」
「互いにこの境を破らぬことを、神前で誓う」
織田方の使者はすぐには答えなかった。
単なる署名ではない。
三者がそろって鎌倉まで行き、坂東武士の信仰を集める鶴岡八幡宮で誓約する。
氏治は、それだけの重みを講和に持たせようとしている。
「それほどまでに?」
使者が尋ねる。
氏治は答えた。
「それほどまでに、だ」
そして箱根の山々を見た。
「ここまで人を死なせたのだ」
氏政も死んだ。
北条兵も死んだ。
徳川兵も死んだ。
織田兵も、小田兵も死んだ。
この程度の約束を、都合が悪くなれば破れるようなものにはしたくなかった。
「戦を始めるのは容易い」
氏治は静かに言った。
「終える方が難しい」
だからこそ、終わらせるなら形を残す。
三者が顔を合わせる。
神前で誓う。
誰か一人が後から「そのような約束は知らぬ」と言えないようにする。
氏邦もやがて頷いた。
「北条としても、それがよろしかろう」
氏治は織田方の使者を見る。
「まず今日は停戦の話をまとめよう」
そして続けた。
「最終的な国境と休戦については、それぞれ持ち帰って決めればよい」
箱根神社で決めるのは、まず刀を止めること。
甲斐と駿河。
箱根の境界。
捕虜交換。
それらの最終条件は、織田、徳川、北条それぞれが確認する。
そしてすべてがまとまったなら――
鶴岡八幡宮へ集まる。
そこで三者が神前に立ち、誓いを交わす。
氏治は最後に言った。
「戦を終えるというなら、皆で終えよう」
こうして箱根神社の会談は、その場で国境を確定することなく収められた。
だが決裂でもなかった。
むしろ初めて、戦争の終わり方が具体的な形を持った。
まず箱根で兵を止める。
次に条件を詰める。
最後に鎌倉へ行く。
箱根の東西では、まだ数万の兵が武器を持って向かい合っている。
海上封鎖も解かれていない。
新田もまだ北にいる。
結城もまだ海にいる。
それでも正月の箱根神社で――
長く続いた戦は初めて、次の戦場ではなく、
鶴岡八幡宮の神前を目指して動き始めた。




