↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1021/1029

箱根講和への道――信長の諫言、家康の決断

箱根講和への道――信長の諫言、家康の決断


織田・徳川軍は、ついに箱根を囲むところまで進んだ。


だが、「囲んだ」という言葉ほど完全な包囲ではなかった。


東側には入れない。


そこは小田原へ続き、小田・北条方が完全に押さえている。


南には海がある。


しかも海上では坂東北方艦隊と東方艦隊が優勢を確保し、伊勢・三河水軍は湾内から容易に出られなくなっている。


箱根の砦群は小田原から補給を受けられ、必要なら海からも物資を回せる。


したがって織田・徳川軍が実際に圧力を加えられるのは、西と北だけだった。


そして、その西と北こそが最も硬い。


険しい山道。


狭い谷。


高所に築かれた砦。


真壁幹久、笠間幹永、宍戸。


下総衆、南常陸衆。


さらに再編を終えた小山勢も戻りつつある。


迂回して背後へ出ることもできない。


海から回ることもできない。


東へ抜けることもできない。


結局、箱根を取ろうと思えば――


西と北から砦を一つずつ正面から抜くしかなかった。


信長は、その現実を見ていた。


---


ある日の評定で、織田信長は徳川家康と向かい合った。


諸将を交えた大評定ではない。


まず二人で話す必要があると信長が考えたのである。


地図には箱根がある。


その東には小田原。


さらにその先には武蔵、上野、下野、常陸。


広大な坂東が続いている。


信長は箱根を指した。


「家康」


「は」


「ここを取って、それで終わると思うか」


家康はすぐには答えなかった。


「箱根を抜けば、小田原がある」


信長の指が東へ動く。


「小田原には氏治が入った。北条だけではない。小田が出てきた」


さらに北へ指を滑らせる。


「新田は上州へ戻った。武田信繁と組んで甲斐へ入ろうとしている」


今度は南。


「海は大掾が押さえ、結城は三河、遠江を荒らしている」


信長は家康を見た。


「これより東にこだわれば、我らは再起不能なほどの被害を受けてもおかしくない」


家康の表情がわずかに動いた。


信長は続けた。


「箱根一つではないぞ」


「……承知しております」


「いや」


信長は遮った。


「まだ承知しておらぬ」


家康が黙る。


「箱根を取れば、氏治はどうする」


「……取り返そうとするでしょう」


「そうだ」


信長は即答した。


「ならば我らは箱根を守る。その間に新田が甲斐へ来る。海から結城が三河を荒らす。北条の残兵も立ち直る。小田はさらに兵を送る」


箱根を取る。


それだけなら、一つの勝利である。


だが取った瞬間から、その箱根を守る戦争が始まる。


信長は地図の東半分を手で示した。


「家康」


そして静かに尋ねた。


「坂東小田との戦にのめり込み、十年、畿内の地に戻れぬ覚悟があるか」


家康が顔を上げた。


「十年……」


「五年で済むかもしれぬ。二十年かもしれぬ」


信長にも未来は分からない。


だからこそ、最悪を考える。


「甲斐を押さえ、駿河を押さえ、そのうえ箱根を越え、相模へ入り、武蔵へ入り、上州から来る敵を防ぎ、海では坂東艦隊と戦う」


信長は言った。


「それをしながら、畿内をどうする」


家康は答えなかった。


「西には西の敵がいる。京もある。畿内もまだ終わっておらぬ」


信長は箱根を指で叩いた。


「この山一つに意地を張って、東国へ十年縛られるつもりなら、わしも覚悟を決めねばならぬ」


そこまで言われて、家康はようやく地図から目を離した。


怒ってはいなかった。


むしろ熱が冷めていくようだった。


三方ヶ原。


失った家臣。


北条との長い遺恨。


氏康はすでに死んでいる。


氏政も今回の戦で討死した。


それでも何かを取り返さなければならないという思いがあった。


だから箱根にこだわった。


だが箱根を取れば終わるという考えそのものが、願望だったのかもしれない。


家康は長く黙った後、言った。


「……少し、考えさせてくだされ」


信長はそれ以上言わなかった。


---


ところが、家康が自陣へ戻ると別の声が待っていた。


徳川家臣たちである。


講和を考え始めているらしい。


その話はすぐに広がった。


「なぜでございます!」


一人が声を上げた。


「なぜ織田殿の意見に、我らが左右されなくてはならぬのです!」


家康は黙って聞いていた。


「これまで織田殿の戦へ、どれほど三河衆が出ました!」


別の家臣も続いた。


「援軍を頼まれれば兵を出した!」


「三河の兵が血を流した!」


「それを今度はこちらが戦っているというのに、甲斐と駿河を取ったからもうよいと!」


「ここまで来て、箱根を目の前にして退けと申されるのですか!」


家臣たちの言葉には理屈だけではないものがあった。


積み重ねだった。


織田との同盟以来、徳川は何度も兵を出してきた。


織田の都合に合わせたこともある。


三河衆が戦った。


死んだ。


耐えた。


ならば今度くらい――


徳川のために織田が最後まで戦ってくれてもよいではないか。


「これまで散々、援軍として尽くしてきたのは我ら三河衆であり――」


家臣は家康を見る。


「家康様ではありませんか!」


「箱根を取りましょう!」


「真壁が何ほどのものか!」


「砦なら落とせばよい!」


「我らが先陣いたします!」


一度冷めかけた陣中の熱が、再び燃え上がる。


家康はしばらく何も言わなかった。


やがて拳を握った。


「……俺も悔しい!」


家臣たちが静まった。


家康は拳を畳へ押しつけた。


「俺とて箱根を取りたい!」


声が震えた。


「三方ヶ原を忘れたわけではない。死んだ者を忘れたわけでもない。ここまで来て、あの山を目の前にして帰れと言われて、腹が立たぬと思うか!」


誰も口を挟まない。


「三河が荒らされている! 遠江も荒らされている! そのうえ目の前には北条と小田がおる!」


家康は顔を上げた。


「全部叩きたいわ!」


それが本心だった。


だが次の言葉は、静かだった。


「……だがな」


家康は家臣たちを一人ずつ見た。


「力がない」


誰かが何か言おうとした。


家康は首を振った。


「勇気の話ではない」


箱根の地図を引き寄せる。


「西と北からしか攻められぬ。東は敵。海も敵。こちらが山を登る間、向こうには小田原から兵糧が届く」


さらに甲斐を指す。


「新田と武田信繁が来る」


三河、遠江。


「結城は我らが兵を戻せば逃げる。こちらが箱根へ来ればまた上陸する」


家康は拳を開いた。


「ここで意地を張って兵を失えば、箱根を取れても、その次がない」


「しかし――」


家康はその家臣を見る。


「力なき限り、食い下がるほかなし」


その言葉に、誰も返せなかった。


負けを認めたのではない。


むしろ逆だった。


生き残るために、一度引く。


取れないものを取れると言い張って全てを失うより、取ったものを確実に残す。


甲斐。


駿河。


これだけは手元に残す。


そしていつか力がつけば、そのとき改めて考えればよい。


家康は立ち上がった。


「軍をまとめよ」


家臣たちが顔を上げる。


「撤退でございますか」


「まだだ」


家康は答えた。


「まず織田殿と話す」


---


再び信長と家康が会ったとき、家康の表情は変わっていた。


信長は一目で察した。


「決めたか」


「はい」


家康は座った。


「箱根は攻めませぬ」


信長は何も言わなかった。


「ただし、ただ帰るつもりもござらぬ」


「当然だ」


そこで初めて信長が笑った。


甲斐と駿河をどうする。


箱根をどちらの側に置く。


北条の扱い。


互いの捕虜。


海上封鎖。


三河・遠江への襲撃停止。


新田・武田信繁による甲斐侵入の停止。


決めなければならないことはいくらでもある。


だが、その前に必要なことが一つある。


戦う意思ではない。


戦争を終える意思である。


「氏治に使者を出すか」


信長が尋ねた。


家康は頷いた。


「小田原にいるのでしょう」


「いる」


「ならば話は早い」


二人は地図を挟んだ。


箱根の東には小田氏治。


西には織田信長と徳川家康。


ここまで互いに兵を集め、砦を築き、海を封じ、敵国へ兵を送り込んだ。


それでも最後に必要となったのは、もう一度兵を進める命令ではなかった。


兵を止めるための使者だった。


こうして信長と家康は、小田原城の氏治との講和を模索し始めた。


箱根ではまだ、両軍が向かい合っている。


真壁幹久らは砦から下りない。


織田・徳川軍も攻めない。


海では坂東艦隊が封鎖を続けている。


結城朝基も、まだ三河・遠江沖にいる。


北では新田が武田信繁との合流へ向かっている。


戦争そのものは、まだ終わっていない。


だが――


箱根の西側で初めて、


「どう勝つか」ではなく、「どこで終えるか」を話す者たちが現れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。