箱根講和への道――信長の諫言、家康の決断
箱根講和への道――信長の諫言、家康の決断
織田・徳川軍は、ついに箱根を囲むところまで進んだ。
だが、「囲んだ」という言葉ほど完全な包囲ではなかった。
東側には入れない。
そこは小田原へ続き、小田・北条方が完全に押さえている。
南には海がある。
しかも海上では坂東北方艦隊と東方艦隊が優勢を確保し、伊勢・三河水軍は湾内から容易に出られなくなっている。
箱根の砦群は小田原から補給を受けられ、必要なら海からも物資を回せる。
したがって織田・徳川軍が実際に圧力を加えられるのは、西と北だけだった。
そして、その西と北こそが最も硬い。
険しい山道。
狭い谷。
高所に築かれた砦。
真壁幹久、笠間幹永、宍戸。
下総衆、南常陸衆。
さらに再編を終えた小山勢も戻りつつある。
迂回して背後へ出ることもできない。
海から回ることもできない。
東へ抜けることもできない。
結局、箱根を取ろうと思えば――
西と北から砦を一つずつ正面から抜くしかなかった。
信長は、その現実を見ていた。
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ある日の評定で、織田信長は徳川家康と向かい合った。
諸将を交えた大評定ではない。
まず二人で話す必要があると信長が考えたのである。
地図には箱根がある。
その東には小田原。
さらにその先には武蔵、上野、下野、常陸。
広大な坂東が続いている。
信長は箱根を指した。
「家康」
「は」
「ここを取って、それで終わると思うか」
家康はすぐには答えなかった。
「箱根を抜けば、小田原がある」
信長の指が東へ動く。
「小田原には氏治が入った。北条だけではない。小田が出てきた」
さらに北へ指を滑らせる。
「新田は上州へ戻った。武田信繁と組んで甲斐へ入ろうとしている」
今度は南。
「海は大掾が押さえ、結城は三河、遠江を荒らしている」
信長は家康を見た。
「これより東にこだわれば、我らは再起不能なほどの被害を受けてもおかしくない」
家康の表情がわずかに動いた。
信長は続けた。
「箱根一つではないぞ」
「……承知しております」
「いや」
信長は遮った。
「まだ承知しておらぬ」
家康が黙る。
「箱根を取れば、氏治はどうする」
「……取り返そうとするでしょう」
「そうだ」
信長は即答した。
「ならば我らは箱根を守る。その間に新田が甲斐へ来る。海から結城が三河を荒らす。北条の残兵も立ち直る。小田はさらに兵を送る」
箱根を取る。
それだけなら、一つの勝利である。
だが取った瞬間から、その箱根を守る戦争が始まる。
信長は地図の東半分を手で示した。
「家康」
そして静かに尋ねた。
「坂東小田との戦にのめり込み、十年、畿内の地に戻れぬ覚悟があるか」
家康が顔を上げた。
「十年……」
「五年で済むかもしれぬ。二十年かもしれぬ」
信長にも未来は分からない。
だからこそ、最悪を考える。
「甲斐を押さえ、駿河を押さえ、そのうえ箱根を越え、相模へ入り、武蔵へ入り、上州から来る敵を防ぎ、海では坂東艦隊と戦う」
信長は言った。
「それをしながら、畿内をどうする」
家康は答えなかった。
「西には西の敵がいる。京もある。畿内もまだ終わっておらぬ」
信長は箱根を指で叩いた。
「この山一つに意地を張って、東国へ十年縛られるつもりなら、わしも覚悟を決めねばならぬ」
そこまで言われて、家康はようやく地図から目を離した。
怒ってはいなかった。
むしろ熱が冷めていくようだった。
三方ヶ原。
失った家臣。
北条との長い遺恨。
氏康はすでに死んでいる。
氏政も今回の戦で討死した。
それでも何かを取り返さなければならないという思いがあった。
だから箱根にこだわった。
だが箱根を取れば終わるという考えそのものが、願望だったのかもしれない。
家康は長く黙った後、言った。
「……少し、考えさせてくだされ」
信長はそれ以上言わなかった。
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ところが、家康が自陣へ戻ると別の声が待っていた。
徳川家臣たちである。
講和を考え始めているらしい。
その話はすぐに広がった。
「なぜでございます!」
一人が声を上げた。
「なぜ織田殿の意見に、我らが左右されなくてはならぬのです!」
家康は黙って聞いていた。
「これまで織田殿の戦へ、どれほど三河衆が出ました!」
別の家臣も続いた。
「援軍を頼まれれば兵を出した!」
「三河の兵が血を流した!」
「それを今度はこちらが戦っているというのに、甲斐と駿河を取ったからもうよいと!」
「ここまで来て、箱根を目の前にして退けと申されるのですか!」
家臣たちの言葉には理屈だけではないものがあった。
積み重ねだった。
織田との同盟以来、徳川は何度も兵を出してきた。
織田の都合に合わせたこともある。
三河衆が戦った。
死んだ。
耐えた。
ならば今度くらい――
徳川のために織田が最後まで戦ってくれてもよいではないか。
「これまで散々、援軍として尽くしてきたのは我ら三河衆であり――」
家臣は家康を見る。
「家康様ではありませんか!」
「箱根を取りましょう!」
「真壁が何ほどのものか!」
「砦なら落とせばよい!」
「我らが先陣いたします!」
一度冷めかけた陣中の熱が、再び燃え上がる。
家康はしばらく何も言わなかった。
やがて拳を握った。
「……俺も悔しい!」
家臣たちが静まった。
家康は拳を畳へ押しつけた。
「俺とて箱根を取りたい!」
声が震えた。
「三方ヶ原を忘れたわけではない。死んだ者を忘れたわけでもない。ここまで来て、あの山を目の前にして帰れと言われて、腹が立たぬと思うか!」
誰も口を挟まない。
「三河が荒らされている! 遠江も荒らされている! そのうえ目の前には北条と小田がおる!」
家康は顔を上げた。
「全部叩きたいわ!」
それが本心だった。
だが次の言葉は、静かだった。
「……だがな」
家康は家臣たちを一人ずつ見た。
「力がない」
誰かが何か言おうとした。
家康は首を振った。
「勇気の話ではない」
箱根の地図を引き寄せる。
「西と北からしか攻められぬ。東は敵。海も敵。こちらが山を登る間、向こうには小田原から兵糧が届く」
さらに甲斐を指す。
「新田と武田信繁が来る」
三河、遠江。
「結城は我らが兵を戻せば逃げる。こちらが箱根へ来ればまた上陸する」
家康は拳を開いた。
「ここで意地を張って兵を失えば、箱根を取れても、その次がない」
「しかし――」
家康はその家臣を見る。
「力なき限り、食い下がるほかなし」
その言葉に、誰も返せなかった。
負けを認めたのではない。
むしろ逆だった。
生き残るために、一度引く。
取れないものを取れると言い張って全てを失うより、取ったものを確実に残す。
甲斐。
駿河。
これだけは手元に残す。
そしていつか力がつけば、そのとき改めて考えればよい。
家康は立ち上がった。
「軍をまとめよ」
家臣たちが顔を上げる。
「撤退でございますか」
「まだだ」
家康は答えた。
「まず織田殿と話す」
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再び信長と家康が会ったとき、家康の表情は変わっていた。
信長は一目で察した。
「決めたか」
「はい」
家康は座った。
「箱根は攻めませぬ」
信長は何も言わなかった。
「ただし、ただ帰るつもりもござらぬ」
「当然だ」
そこで初めて信長が笑った。
甲斐と駿河をどうする。
箱根をどちらの側に置く。
北条の扱い。
互いの捕虜。
海上封鎖。
三河・遠江への襲撃停止。
新田・武田信繁による甲斐侵入の停止。
決めなければならないことはいくらでもある。
だが、その前に必要なことが一つある。
戦う意思ではない。
戦争を終える意思である。
「氏治に使者を出すか」
信長が尋ねた。
家康は頷いた。
「小田原にいるのでしょう」
「いる」
「ならば話は早い」
二人は地図を挟んだ。
箱根の東には小田氏治。
西には織田信長と徳川家康。
ここまで互いに兵を集め、砦を築き、海を封じ、敵国へ兵を送り込んだ。
それでも最後に必要となったのは、もう一度兵を進める命令ではなかった。
兵を止めるための使者だった。
こうして信長と家康は、小田原城の氏治との講和を模索し始めた。
箱根ではまだ、両軍が向かい合っている。
真壁幹久らは砦から下りない。
織田・徳川軍も攻めない。
海では坂東艦隊が封鎖を続けている。
結城朝基も、まだ三河・遠江沖にいる。
北では新田が武田信繁との合流へ向かっている。
戦争そのものは、まだ終わっていない。
だが――
箱根の西側で初めて、
「どう勝つか」ではなく、「どこで終えるか」を話す者たちが現れた。




