閉ざされた駿河湾――結城朝基の沿岸攪乱
閉ざされた駿河湾――結城朝基の沿岸攪乱
海では、陸より先に勝負がついた。
伊豆沖から東海道沿岸へ展開した坂東北方艦隊・東方艦隊に対し、織田・徳川方も黙ってはいなかった。
伊勢、三河の水軍が動いたのである。
東海道への海上封鎖を解き、駿河方面への輸送路を取り戻す。そのために集められた船団だった。
だが、海へ出た彼らを待っていたのは、それまで東国の水軍が相手にしてきた和船とは性質の異なる軍船だった。
坂東フリガッタ。
帆走性能と砲戦能力を重視した坂東艦隊の主力艦である。
大掾幹康は敵船団を湾内深くまで追わなかった。
外へ出てくる船だけを狙った。
沖へ出た伊勢・三河水軍に対し、坂東フリガッタは距離を保ちながら砲撃を加えた。
敵が接近しようとすれば離れ、隊列が崩れれば再び寄せる。
何度か海戦が繰り返された。
やがて伊勢・三河水軍は、湾外へ出ることそのものを避け始めた。
港。
湾。
沿岸砦。
そこへ船を集め、陸上の守備と一体となって守る。
坂東艦隊からすれば、これは困った変化でもあった。
「もう出てこぬな」
大掾は遠くの沿岸を眺めた。
湾内には敵船がいる。
しかし近づけば沿岸からも攻撃を受ける。
狭い湾内へ入り込んで敵船を一隻ずつ焼くなど、こちらの利点を自ら捨てるようなものだった。
これ以上、敵艦の数を減らすのは難しい。
だが大掾は、それを敗北とは考えなかった。
むしろ逆だった。
「よい。出てこぬなら、それでよい」
坂東艦隊が海上にいる限り、敵船は湾内から容易に出られない。
軍需物資を積んで東海道沿岸を自由に行き来することも難しい。
海上封鎖という当初の目的から見れば――
すでに達成していた。
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その状況を別の目で見ていた者がいた。
伊豆で警護と斥候を担当していた結城朝基である。
結城は連日のように小舟や斥候を出し、伊豆から駿河方面の動きを探らせていた。
報告には共通するものがあった。
敵船が出てこない。
海岸には兵がいる。
だが、その兵は港と船を守ることを優先している。
そして箱根方面には、なお織田・徳川軍が集まり続けている。
結城は地図を見ながら考えた。
やがて小田原ではなく、伊豆に近い大掾の指揮所へ自ら赴いた。
「大掾殿」
「結城殿。何か見つけたか」
「見つけたというより、見えなくなったものがございます」
「何だ」
「敵の船です」
大掾は少し笑った。
「我らが追い込んだからな」
「だからこそです」
結城は海図の三河を指した。
そこから遠江。
そして駿河へ指を滑らせる。
「敵は船を出さぬ」
「うむ」
「ならば、こちらが出せます」
大掾の笑みが消えた。
結城は続けた。
「三河、遠江、駿河。この沿岸へ兵を送り込みます」
「……上陸するつもりか」
「します」
「城でも取るか」
「取りませぬ」
結城は即答した。
「土地も要りませぬ」
大掾が結城を見る。
「では何をする」
結城は地図上にいくつか指を置いた。
「軍倉庫」
別の場所。
「兵糧蔵」
さらに別の場所。
「船溜まり、軍馬の集積所、武具を置く施設。敵が箱根の戦を続けるために使っているものだけです」
大掾は腕を組んだ。
「大規模な上陸攪乱か」
「はい」
結城朝基が考えていたのは、領土攻略ではなかった。
坂東艦隊の制海権を利用し、小規模な部隊を各所へ上陸させる。
目標を破壊したら、すぐ船へ戻る。
敵が兵を集めれば別の場所へ行く。
城は攻めない。
町を占領しない。
領民を支配しない。
長期間の橋頭堡も築かない。
ただ、軍事施設だけを狙って沿岸を荒らして回る。
大掾は難しい顔をした。
「それを始めれば、敵も沿岸へ兵を置くぞ」
「置かせるのです」
結城は答えた。
大掾が目を細めた。
「箱根へ行くはずだった兵を」
そこで大掾にも意図が伝わった。
織田・徳川は箱根へ兵を集めている。
だが三河、遠江、駿河の沿岸で軍倉庫が次々と襲われれば、放置することはできない。
港を守る。
倉庫を守る。
街道と海岸を警戒する。
上陸地点を予測する。
そのすべてに兵が必要になる。
結城はさらに念を押した。
「軍倉庫や軍施設を壊して回るだけです」
「だけ、と申すか」
「堺は締めぬのでしょう?」
大掾は黙った。
「ならば我らも戦を際限なく広げる必要はありません。三河を取らぬ。遠江を取らぬ。駿河も取らぬ。ただ箱根へ向かう力を削る」
結城は指を箱根へ戻した。
「真壁らが一日敵を止める。その一日の間に、我らは敵の後ろを走り回るのです」
大掾はしばらく考えた。
海上封鎖だけなら、こちらは海に浮かんでいればよい。
しかし結城の策を実行すれば、戦争は一段階激しくなる。
それでも堺封鎖とは違う。
敵の商業圏全体を締め上げるのではない。
対象を東海道沿岸の軍事拠点に限れば、箱根戦線への軍事行動という枠を保つことはできる。
やがて大掾は言った。
「条件がある」
「聞きましょう」
「城を取るな」
「取らぬ」
「町を焼くな」
「不要です」
「略奪を目的とするな」
「兵糧を持ち帰るより、敵が使えなくすればよい」
「長居するな」
「それが肝要です」
大掾は最後に確認した。
「敵の軍事施設を破壊したら、すぐ海へ戻る」
結城は頷いた。
「船が我らの城です」
その一言で、大掾は決めた。
「よし」
海図が大きく広げられた。
三河。
遠江。
駿河。
長大な海岸線が二人の前に現れる。
大掾はその海岸を見渡した。
「一か所へ大軍を降ろすな。敵に我らの狙いを読ませる」
「同感です」
「艦隊を分ける。斥候を先に出す。敵が固めたところには行かぬ」
結城も次々と案を加えた。
「昨日三河へ出た船が、明日は遠江へ現れる。駿河へ兵を集めたなら、また三河へ戻る」
「敵に海岸線全部を守らせるか」
「はい」
大掾は思わず笑った。
「長いぞ」
「だから良いのです」
こうして坂東艦隊の任務は、単なる海上封鎖から一歩進んだ。
海を押さえる。
斥候が上陸地点を探す。
結城朝基の兵が短時間だけ陸へ入り、軍事施設を襲撃する。
目的を果たせば、追撃される前に海へ消える。
やがて三河、遠江、駿河の沿岸では奇妙な報告が相次ぎ始めた。
――坂東の船を見た。
――兵が上陸した。
――軍の蔵が襲われた。
――追手を出したころには、もう船へ戻っていた。
――次はどこへ来る。
敵は分からない。
箱根へ送る予定だった兵を沿岸へ残すべきか。
軍需施設の守備を増やすべきか。
それとも坂東艦隊が次に現れる場所を読んで兵を集めるべきか。
海戦そのものは、むしろ減っていた。
伊勢・三河水軍が湾内を固めて出てこなくなったからである。
だがそれによって坂東艦隊には、敵艦を探して戦う必要すらなくなった。
敵が海へ出ないのなら、その海を使ってこちらが敵の背後へ行けばよい。
箱根ではなお、真壁幹久らが砦に籠もり、織田・徳川軍と睨み合っていた。
北では新田勢が武田信繁との合流を急ぐ。
そして南では結城朝基が、三河・遠江・駿河という長大な海岸線そのものを、新しい戦場へ変え始めていた。
箱根を攻めるために集められていた織田・徳川軍は、まだ知らない。
自分たちが山を見上げている間に――
背後の海岸すべてが、守らなければならない前線になろうとしていた。




