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箱根静止――海を閉ざし、甲斐へ走

箱根静止――海を閉ざし、甲斐へ走る


箱根では、奇妙な静けさが訪れていた。


織田・徳川軍は追撃の勢いそのままに箱根まで進出したものの、そこで足を止めた。


理由は単純だった。


硬すぎる。


箱根そのものが険しい山岳地帯である。


道は限られ、大軍を横へ広げることができない。しかも北条との長年の軍事交流によって、この土地の重要性を知る小田方は、以前から駿河・甲斐双方を睨めるよう砦を整えていた。


そこへ真壁幹久、笠間幹永、宍戸らが入っている。


下総衆、南常陸衆も健在だった。


無理に攻めれば、狭い山道を登ったところを砦から叩かれる。


たとえ一つを落としても、その先にまた次の陣地がある。


織田も徳川も、それが分からぬほど勢いに酔ってはいなかった。


とりわけここまで追撃を続けてきた軍勢には、負傷者も疲労も蓄積している。


だから攻めなかった。


先鋒だけを箱根へぶつけて損耗させるより、まず兵を集める。


遅れている部隊を待つ。


兵糧を運び上げる。


鉄砲と弾薬をそろえる。


道を調べる。


そして何より、箱根の小田軍がどの程度の規模なのかを探る。


織田・徳川軍は箱根西方でじわじわと膨らみ始めた。


真壁幹久も動かなかった。


「来ぬなら、それでよい」


砦から敵陣を眺め、それだけ言った。


笠間幹永も同じだった。


「兄上、こちらから下りますか」


「下りてどうする」


真壁は笑った。


「せっかく向こうが山を登らねば我らを斬れぬというのに、こちらから平地へ出てやることもあるまい」


弟の笠間も笑った。


こうして箱根では、双方が軍勢を増やしながら睨み合う時間が始まった。


だが――


その時間こそ、小田氏治が欲しかったものだった。


---


小田原を出た新田勢は、北へ急いでいた。


目的地は上州。


そして、その先にいる武田信繁である。


新田は箱根で再編する小山や伊豆へ向かう結城とは違い、小田原周辺に長く留まらなかった。


自らの本拠に近い上州へ戻った方が、兵も馬も早くそろう。


途中、武蔵を抜けながら各所へ先触れを飛ばす。


「残してきた者を集めよ」


「馬を用意せよ」


「碓氷へ兵糧を送れ」


「信繁殿へ使者を走らせよ。我ら、間もなく参るとな」


新田に与えられた命令は明快だった。


武田信繁と合流し、碓氷峠から甲斐をこじ開ける。


箱根の敵を直接助ける必要はない。


むしろ甲斐を揺さぶる。


織田・徳川が箱根へ兵を集めれば集めるほど、その背後にある甲斐への圧力を強くする。


新田勢はそのために北へ走った。


---


一方、南ではさらに大きな動きが始まっていた。


坂東北方艦隊。


坂東東方艦隊。


二つの艦隊が伊豆方面へ集結しつつあった。


大掾幹康が最初に命じたのは、上陸ではない。


まして沿岸の城を砲撃することでもなかった。


「まず、海を押さえる」


相模湾から伊豆沖へ、艦船が散開していく。


狙うのは東海道だった。


正確には、陸上の東海道そのものを遮断するのではない。


東海道を支える海上輸送を封じる。


駿河から相模へ。


伊豆沿岸から駿河湾へ。


さらに遠く西国方面から運ばれてくる物資。


織田・徳川軍が箱根へ大軍を集めるほど、その軍勢は大量の兵糧を必要とする。


米だけではない。


塩。


味噌。


馬の飼料。


火薬。


鉛。


鉄砲。


矢。


負傷者のための薬。


そして補充の兵。


海路を使えるのと使えないのとでは、その負担がまるで違う。


大掾は船上で海図を広げた。


「ここから先へ行く船は調べよ」


ただし、命令を一つ加えた。


「何でも沈めるな」


諸将が大掾を見る。


「商船まで片端から敵にしてはならぬ。織田・徳川の軍需と明らかなものを止める。疑わしきものは積荷を改めよ」


戦争をするための封鎖であって、海そのものを敵に回すための封鎖ではない。


北方・東方両艦隊は伊豆沖から駿河湾口を意識するように展開を始めた。


ここで大掾幹康の頭に、さらに一つの考えが浮かんだ。


「……堺は」


側近が振り向く。


「は?」


大掾は海図の西を見た。


堺。


畿内最大級の商業港である。


もし本気で織田方の海上物流へ打撃を与えるなら、伊豆や駿河の近海だけを見ていてよいのか。


もっと西。


物流の大元へ手を伸ばす。


西方の諸勢力と連絡を取り、堺へ出入りする船舶まで締め上げれば――。


大掾はしばらく黙った。


できるか、できないかではなかった。


やった後に何が起きるか。


それを考えた。


堺を締める。


それは箱根戦線の補給を妨害するという程度の話ではない。


畿内の商人が動く。


瀬戸内が動く。


織田の水軍が動く。


坂東の海軍もさらに西へ出なければならなくなる。


北条と小田を支えるための戦争が、いつの間にか東国と畿内を結ぶ海上交通そのものを争う戦争へ変わる。


一度そこまで行けば、簡単には止められない。


大掾は海図の堺から指を離した。


「……やめておこう」


側近が尋ねる。


「締めませぬか」


「締めぬ」


大掾は即答した。


「そこまでやれば、もう箱根の戦ではない」


再び伊豆沖を指す。


「どちらかが倒れるまで終わらぬ大戦になる」


敵の兵糧を断つためなら合理的である。


だが合理的であるからこそ、危険だった。


一方が堺を締めれば、もう一方はその封鎖を破ろうとする。


破られれば、さらに遠くを締める。


港を奪い、船を焼き、商人を囲い込み、瀬戸内の諸勢力までどちらにつくかを迫られる。


そうなれば講和の余地が消えていく。


大掾は命令を改めて確認した。


「我らが締めるのは東海道方面の海だけだ。戦を西へ広げるな」


「はっ」


「敵が箱根へ運ぼうとする物を止める。それ以上はせぬ」


艦船が次々と持ち場へ散っていった。


そのころ箱根では、織田・徳川軍が兵を集め続けている。


砦の上では真壁と笠間が、それを黙って眺めている。


北では新田が上州へ急ぎ、武田信繁との合流を目指す。


南では結城が伊豆の陸を固め、その沖では坂東の二個艦隊が東海道の海を締め始める。


箱根では、まだ大きな戦闘は起きていなかった。


だが戦場そのものは、静かに広がっていた。


そして大掾幹康だけは、その戦場をどこまで広げてよいのかという境目を見ていた。


堺には、まだ手を出さない。


その一線を越えれば、勝敗ではなく――


どちらかが倒れるまで終わらない戦争になる。

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