小田原軍議――坂東の門を三方から閉ざす
小田原軍議――坂東の門を三方から閉ざす
小田原城に軍司令部を置くことが決まると、小田氏治はすぐに諸将の配置を組み直した。
いま必要なのは、傷ついた軍勢をそのまま前線へ押し戻すことではない。
箱根で敵を止める者。
上州から甲斐を脅かす者。
伊豆を守る者。
そして海を押さえる者。
それぞれを分けなければならなかった。
小田原城の一室に地図が広げられる。
氏治はまず箱根を指した。
「箱根は動かさぬ」
すでに陣地を構築し、織田・徳川軍を待ち受けている真壁幹久と笠間幹永を中心とする防衛線である。
「真壁、笠間をそのまま箱根に置く。宍戸も残せ。下総衆、南常陸衆も箱根へ集め、この三方を支えよ」
箱根はもともと北条との長い軍事交流を通じ、小田方も防衛上の重要性を理解していた土地だった。
しかも今回は、単に峠道を塞いでいるのではない。
駿河方面と甲斐方面の双方を睨めるよう砦が配置されている。
正面の敵を受け止めながら、甲斐から別働隊が出てくる可能性にも備える。
その防衛そのものは、真壁らに任せればよい。
問題は、その後ろであった。
氏治は小山、新田、結城の三将を見た。
三将とも、ここまでの戦いで兵を減らしている。
「小山、新田、結城。三将軍はいったん前線から外す」
三人が顔を上げた。
「小田原周辺で兵を数え直せ。隊を組み直し、武具を改め、負傷者を外せ。散った者が戻ってくれば元の隊へ戻す。まず再編成だ」
そして氏治は小山を見た。
「小山」
「はっ」
「再編が済み次第、再び箱根へ行け」
小山は即座に頭を下げた。
「承知」
「真壁らだけにいつまでも受けさせるわけにはいかぬ。おぬしは新たにまとめた兵を率いて箱根へ入り、後詰となれ。敵が押してくれば支え、こちらに余裕ができれば交代して前へ出よ」
「お任せあれ」
続いて氏治の指が、地図の上を大きく北へ滑った。
相模から武蔵を越え、上野へ。
そして碓氷峠。
「新田」
「は」
「おぬしは上州へ帰れ」
新田がわずかに目を細めた。
「武田信繁殿と合流せよ」
碓氷峠にはすでに新田が残していた分隊があり、武田信繁がこれを率いて甲斐方面を警戒している。
だが氏治が求めたのは、もはや警戒だけではなかった。
氏治の指が、碓氷峠から甲斐へ向かって動いた。
「再編した上州勢を率い、信繁殿とともに――」
一度、指を止める。
「碓氷峠から甲斐をこじ開けよ」
周囲の空気が変わった。
それまで守りの話をしていた氏治が、初めて明確に攻勢を命じたのである。
新田は地図をじっと見る。
「甲斐へ、入れと」
「入れるなら入れ」
氏治は答えた。
「だが城をいくつ取った、土地をいくら奪ったという話ではない。甲斐を脅かせばよい」
新田は意図を悟った。
箱根へ集まりつつある織田・徳川軍。
その背後にある駿河と甲斐。
もし上州側から甲斐へ小田方が侵入すれば、敵は箱根だけを見てはいられなくなる。
「信繁殿なら甲斐の道も人も知っておる。おぬしは上州の兵と地の利を持つ。二人で甲斐を揺さぶれ」
「承知いたしました」
新田は深く頭を下げた。
最後に氏治は伊豆へ指を移した。
「結城」
「はっ」
「おぬしは南だ」
結城が地図へ身を寄せる。
「結城軍をまとめ直せ。それだけでは足りぬ。小田原へ戻ってきた残兵のうち、所属を失った者、隊が崩れて元へ戻せぬ者もまとめて引き取れ」
「北条の兵もでしょうか」
「望む者はな」
氏治は答えた。
「無理に小田の指揮へ入れる必要はない。ただし戦える者を小田原で遊ばせるな」
そして伊豆半島を指した。
「伊豆の警戒にあたれ」
結城は頷く。
織田・徳川軍が箱根正面だけから来るとは限らない。
駿河から伊豆へ回り込む可能性もあれば、海上から兵を動かすことも考えられる。
何より北条勢が大きく傷ついた今、伊豆方面は従来ほど十分な兵を置けない。
「深入りする必要はない。敵を見つけ、道を押さえ、港を守れ。何かあればすぐ小田原へ知らせよ」
「御意」
こうして役目が決まった。
箱根――真壁幹久、笠間幹永、宍戸、下総衆、南常陸衆。
そこへ再編成を終えた小山勢が後詰として戻る。
上州――新田勢。
武田信繁と合流し、碓氷峠から甲斐を脅かす。
伊豆――結城勢。
自軍と帰還した残兵をまとめ、伊豆方面を警戒する。
氏治がさらに細かな兵糧の割り振りを指示していた、そのときだった。
廊下が騒がしくなった。
やがて近習が入ってくる。
「申し上げます。大掾幹康殿、小田原へ到着!」
氏治が顔を上げた。
「幹康が?」
ほどなく大掾幹康が姿を現した。
陸路を急いできたのだろう。旅装を解く暇すら惜しんだような姿である。
それでも氏治の前へ進むと、きちんと礼をした。
「氏治公」
「どうした。海で何かあったか」
「いえ」
幹康は顔を上げた。
「その海について、ご報告に参りました」
氏治の前に置かれていた地図のうち、今度は相模湾と伊豆沖へ幹康の手が伸びた。
「坂東北方艦隊ならびに東方艦隊、伊豆へ集合させました」
氏治だけでなく、北条氏邦も反応した。
「艦隊を?」
「はい」
坂東海軍総帥となった幹康は淡々と続けた。
「北方艦隊は南下。東方艦隊にも命を回しております。すでに伊豆方面を集合地点として動いておりますゆえ、順次到着いたします」
結城が思わず地図を見る。
つい先ほど自分に命じられた伊豆警戒。
そこへ海軍が来る。
氏治はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと地図全体を見渡した。
箱根。
碓氷。
伊豆。
陸だけを見れば、三つの方向へ軍を散らしたように見える。
だが違う。
箱根では真壁らが敵を受け止め、小山が後詰に入る。
北では新田と武田信繁が碓氷から甲斐を突く。
南では結城が伊豆を警戒し、その沖へ大掾幹康の率いる坂東海軍が集まってくる。
氏邦も、それに気づいた。
「……小田殿」
氏治は答えなかった。
ただ伊豆沖に置かれた幹康の指と、碓氷峠に置いた自分の指、そしてその間にある箱根を順番に見た。
織田・徳川は、追撃の勢いに乗って箱根まで来た。
坂東の門を叩きに来た。
ならば、その門をただ正面から押さえるだけではない。
北からは甲斐を脅かす。
南からは伊豆と海を押さえる。
そして中央では、箱根の砦群が待っている。
氏治は大掾幹康へ尋ねた。
「幹康」
「はっ」
「北方と東方、両艦隊をまとめて動かせるか」
幹康は即答した。
「そのために参りました」
氏治は小さく頷いた。
「ならば結城と話せ。陸は結城、海はおぬしだ」
「承知」
結城も頭を下げた。
氏治は再び地図を見た。
これで箱根だけの戦ではなくなった。
織田・徳川軍が坂東の門を叩いたその瞬間から、小田方もまた戦場を箱根一か所に限定する理由を失っていた。
守るべき門は箱根にある。
だが――
敵に開けさせる門は、甲斐にも伊豆にもあった。




