小田原城――坂東の門を叩く者
小田原城――坂東の門を叩く者
小田原城へ戻ってくる兵は、もはや軍勢というより、戦場からどうにか抜け出してきた者たちの群れだった。
城門では一人ひとり名を尋ね、所属を確かめ、生きて帰った者を帳面へ書き加えている。
「十二人」
「こちらは七人。うち二人、歩けませぬ」
「伊豆衆、さらに二十三人戻りました」
帰還者を数える声が絶えない。
だがそれは同時に、帰ってこなかった者を数える作業でもあった。
駿河から箱根へ続く退却戦で、北条勢は大きく傷ついていた。
なかでも痛恨だったのは、北条氏政の死である。
織田・徳川軍の圧力を押し返そうとした正面突破。その激戦のなかで氏政は討死した。
北条家の者たちはまだ、その死を受け入れ切れていない。
そんな小田原城へ、小田氏治が入った。
小田勢そのものも無傷ではない。だが箱根を支える援軍として到着した小田軍の姿は、傷ついた北条勢にはひどく頼もしく映った。
氏治は城内へ入るなり、まず帰還兵の様子を見た。
泥だらけの具足。折れた槍を杖代わりにする者。仲間の肩を借りて歩く者。庭先には負傷者が並び、城内では薬や湯を運ぶ者が絶えず行き交っている。
氏治はそれらを黙って見てから、評定の間へ入った。
待っていたのは北条氏邦だった。
氏邦も疲れ切っていた。
それでも氏治を見ると姿勢を正し、深く頭を下げた。
「小田殿。よう参られた」
「氏邦殿」
二人は向かい合った。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
先に話し始めたのは氏邦だった。
「……兄、氏政は、正面突破の折に討死いたしました」
氏治は黙って聞いた。
「残った者を見れば、お分かりになりましょう。皆、よく戦いました。しかし北条は、あまりにも多くを失った」
氏邦は一度言葉を切った。
そして氏治をまっすぐ見た。
「もはや北条方をまとめる者は、我以外にござらぬ」
それは誇示ではなかった。
そう言わなければならなくなったこと自体への苦渋が、その声には滲んでいた。
「ゆえに、小田殿」
氏邦は頭を下げる。
「外戚として、これまで以上の御支援を賜りたく思う次第にござる」
氏治の表情がわずかに変わった。
北条の家中をどう立て直すか。
誰を中心に据えるか。
そして、小田と北条の関係を今後どうするか。
氏邦が言いたいことは分かる。
だが氏治は、そこで首を横へ振った。
「氏邦殿」
「は」
「いま、その話をするときではない」
氏邦が顔を上げた。
氏治は静かに続ける。
「織田、徳川はいま、駿河において氏康公と争った積年の恨みを晴らすべく躍起になっておる」
氏邦の顔が険しくなった。
「それだけではない。追撃戦で勝ちに乗り、調子づいたまま箱根まで来た」
氏治は床に広げられた地図へ目を落とした。
駿河。
甲斐。
箱根。
そして、その東に小田原。
さらにその先には、広大な坂東がある。
氏治は箱根を指で叩いた。
「奴らは、とうとう坂東の門を叩きに来たのだ」
静かな言葉だった。
だが氏邦には、その一言の意味がよく分かった。
これは、もはや北条だけの戦ではない。
駿河をめぐる戦でもない。
箱根を越えれば、戦火は坂東へ入る。
北条、小田、そして坂東諸勢力すべての問題になる。
「いま将来の政の話をして、北条の家中が誰につく、誰を立てるなどと始めてみよ。その間にも敵は箱根を削る」
「しかしながら――」
氏邦はなお食い下がった。
「兄は死にました。家中には動揺がございます。このままでは、戦の最中に北条そのものがまとまりを失いまする」
氏治も、それは否定しなかった。
氏邦はしばらく考えていたが、やがて別の言葉を出した。
「……ならば、一つ願いがございます」
「申されよ」
「小田原城に、軍司令部を置いていただきたい」
氏治が氏邦を見る。
氏邦は地図上の小田原を指した。
「箱根から近い。伊豆にも通じ、相模の兵も集められる。海からの知らせも入る。傷ついた北条勢の再編も、この城ならばできまする」
そして何より、と氏邦は続けた。
「小田殿がおられる」
氏治は何も言わない。
「北条だけで評定すれば、いま誰が上かという話になる。されど、小田殿が軍司令としてここにおられれば、少なくとも戦の間は皆、敵を見ることができまする」
氏治はしばらく地図を眺めていた。
箱根では真壁幹久と笠間幹永が砦を固めている。
その背後に小田原がある。
負傷者を収容し、兵を再編し、兵糧と武具を送り、駿河・甲斐双方から入ってくる情報を整理する場所としても悪くない。
やがて氏治は頷いた。
「……ならば、それは受けよう」
氏邦が深く頭を下げた。
「かたじけない」
「ただし」
氏治は釘を刺した。
「これは北条の跡目を決めるための評定所ではない」
「承知しておりまする」
「箱根を守り、敵を坂東へ入れぬための軍司令部だ。北条も小田もない。ここへ集まる者には、それだけを考えてもらう」
氏邦は今度こそ、はっきりと頷いた。
「御意」
こうして小田原城は、傷ついた北条勢が帰還者を数える城であると同時に、箱根戦線を支える軍司令部へと姿を変えることになった。
城門では、その間にも新たな一団が帰ってきていた。
「箱根口より帰還! 三十一名!」
帳面へ、また三十一の名が加えられる。
氏治はその声を聞きながら立ち上がった。
いまは、次の政を決める時ではない。
北条の跡目も、小田との関係も、生き残った者たちが後で決めればよい。
そのためにはまず――
坂東の門を、閉じておかなければならなかった。




