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十月――箱根の壁

十月――箱根の壁


箱根までの道は、長かった。


距離だけの話ではない。


一日進むたびに戦った。


結城朝基が殿で敵を受け、新田が側面を守り、小山義広が北条の残兵をまとめる。


追いつかれれば止まる。


押し返す。


そして退く。


何度も、それを繰り返した。


織田・徳川勢とて無傷ではなかった。


掛川では北条軍が、退路を捨てて正面突破を敢行した。


甲斐から織田軍が駿河へなだれ込み、後方への道が危うくなったことで、北条は退却ではなく徳川正面を破る道を選んだ。


その突破は成功した。


だが代償はあまりにも大きかった。


長篠へ戻った北条軍は、甲斐から回り込んできた織田軍と、正面へ増援された織田勢との間に挟まれた。


そこへ小山義広が小田軍を率いて到着し、外から包囲へ食い込んだ。


北条が内から押し、小山が外から押す。


それでようやく穴が開いた。


北条勢は脱出した。


だが小山勢まで消耗し、今度は追撃を受けた。


そこへ川越から新田勢が間に合った。


川越で織田別働隊と睨み合っていた新田軍は、その織田勢が退いたことで南へ転じ、小山と北条を救った。


さらに駿河城まで後退すると、十月には結城朝基軍が到着した。


結城はそこで殿を引き受けた。


だから、ここまでの戦いは決して一方的ではない。


北条は徳川を正面から破った。


小山は織田の包囲を破った。


新田は追撃を遮った。


結城は撤退する全軍の後ろに立った。


織田も徳川も、そのたびに押し返され、兵を失い、隊を組み直している。


それでも――。


翌日には、また来た。


小山が一度、遠くに現れた敵の旗を見て呟いた。


「昨日、あれだけ叩いたはずだぞ」


新田も黙って見ていた。


理由は分かっている。


ここは駿河である。


その向こうには遠江。


さらに徳川の本国である三河がある。


徳川にとって、この戦場は遠征の果てではない。


道を知っている。


村を知っている。


どこから兵糧を運び、どこへ負傷者を送り、どこで馬を替えられるかを知っている。


兵が傷つけば後ろへ送る。


矢が減れば運び込む。


鉄砲玉も来る。


食糧も来る。


そして織田勢もまた、甲斐を平らげながら補給路を整え始めていた。


甲斐の城と街道を一つずつ押さえ、その道を通じて兵と物を南へ送る。


だから押し返しても、また来る。


対する北条・小田方は違った。


戦えば、その分だけ減った。


北条勢はとりわけ酷かった。


もはや一つの軍勢というより、残った者たちを皆で支えながら坂東へ運んでいるような有様だった。


北条氏政は、すでにいない。


駿河城へ入った後の確認で、その討死が明らかになった。


残る北条一門で軍をまとめられるのは、北条氏邦くらいになっていた。


小山勢も長篠の包囲突破で傷ついている。


新田勢も、川越を出たころの軍ではなくなった。


結城勢はさらに厳しい。


駿河城を出てから、最後尾を守り続けている。


敵が追いつけば結城が止まる。


戦う。


距離を作る。


そして退く。


また追いつかれる。


また戦う。


結城朝基が駿河城へ到着したときに率いていた軍勢は、少しずつ、確実に小さくなっていた。


それでも崩れなかった。


北条氏邦が北条残兵をまとめる。


小山義広がそのそばを離れない。


新田が側面を守る。


結城朝基が後ろを引き受ける。


誰か一つでも崩れれば、すべてが崩れる。


だから皆が踏ん張った。


勝つ必要はなかった。


今日を越える。


次の道まで行く。


次の川まで行く。


次の宿まで行く。


一日ずつ東へ進む。


そうして、ついに山が見えた。


箱根だった。


北条勢から声が上がった。


ようやくここまで来た。


だが小山は喜ばなかった。


箱根は険しい。


道は狭い。


追撃を受けながら山道へ入れば、前が詰まっただけで全軍が動けなくなる。


ここまで来て潰されれば、駿河から続けてきた撤退戦のすべてが無駄になる。


小山は物見を出した。


ほどなく戻ってきた者が、意外なことを告げた。


「兵がおります」


小山が顔を上げた。


「敵か」


「いえ。味方です」


さらに進んだ。


すると、箱根の山中の様子が変わっていった。


柵がある。


土塁がある。


山道が意図的に狭められている。


横道には兵を置く場所が作られ、物資を置く場所まで決められている。


急ごしらえではなかった。


小山たちがここへ来るより前から、箱根で戦うことを想定して整えられた陣地だった。


そして、その奥に小田の旗が並んでいた。


そこから二人の将が出てきた。


兄、真壁幹久。


弟、笠間幹永。


名字は違う。


だが二人は実の兄弟だった。


弟の幹永は笠間家へ入り、笠間の名字を名乗っている。


この箱根では兄の真壁幹久が、小田軍の箱根方面を預かる司令として詰めていた。


笠間幹永はその弟として、また一軍を預かる将として兄を支えていた。


氏治は正式参戦を決めた段階で、箱根を一つの防衛線として見ていたのである。


北条が駿河で持ちこたえられなくなる可能性。


織田・徳川が駿河を抜き、その勢いのまま坂東へ入ってくる可能性。


そして小山や新田が北条勢を連れて後退してくる可能性。


そのすべてに備えて、真壁幹久を箱根軍司令として先に入れていた。


小山が到着すると、幹久はまずその後ろを見た。


北条勢。


小山勢。


新田勢。


さらに遠く、殿を務めながら戻ってくる結城勢。


どの軍も酷い有様だった。


具足は泥にまみれ、旗は裂け、馬は痩せている。


人の顔には疲労が張り付いていた。


幹久は余計なことを言わなかった。


「よく戻った」


小山も短く返した。


「後ろにいる」


「分かっている」


それだけで話は済んだ。


ここからは、真壁幹久が引き受ける。


箱根の陣地から新しい小田兵が出た。


最初に受け取ったのは負傷者だった。


歩けない者。


自力では山を越えられない者。


掛川から運ばれ続けてきた北条兵。


長篠で傷ついた小山兵。


撤退戦で傷ついた新田兵。


そして殿を務めて傷ついた結城兵。


次々と陣地の後方へ送られた。


箱根から先は小田原を目指す。


北条の本国である。


そこで傷を治す。


食わせる。


眠らせる。


散り散りになった者の所在を調べる。


氏政を失った北条家をどうするかも、そこで考えなければならない。


続いて北条氏邦と北条残兵を通すことになった。


氏邦は残ろうとした。


だが、北条勢を見れば答えは明らかだった。


彼らはもう十分に戦っている。


掛川で徳川を正面突破した。


長篠で織田に囲まれた。


小山に救われ、新田に救われ、結城に守られてここまで来た。


ここでさらに箱根の陣地戦へ投入して使い潰してはならない。


北条の旗が、一つずつ山道の奥へ消えていった。


その先には小田原がある。


負傷者も続いた。


小山義広は、その様子をしばらく見送っていた。


自分が北条へ出向したとき、こんな形で彼らを連れて帰ることになるとは思っていなかった。


氏政はいない。


多くの将兵もいない。


それでも氏邦と残兵は帰ってきた。


少なくとも、ここまでは連れてきた。


やがて新田勢も箱根陣地へ入った。


最後に戻ってきたのは結城朝基だった。


朝基の後ろから、結城勢が入ってくる。


駿河城へ援軍として到着したときより、明らかに数が減っていた。


それでも最後まで隊列は崩れていなかった。


真壁幹久が朝基を迎えた。


「もうよい」


朝基は西を振り返った。


まだ敵がいる。


「まだ来るぞ」


「だから我らがここにいる」


幹久の隣には笠間幹永がいた。


弟の幹永は兄ほど言葉を発さず、すでに兵をそれぞれの持ち場へ送り始めている。


兄が全体を見る。


弟が陣地を動かす。


兄弟は名字こそ違ったが、互いが何をするのか分かっていた。


「ここからは箱根軍が受ける」


その言葉を聞いて、結城朝基はようやく殿を降りた。


駿河城からずっと守ってきた最後尾を、初めて別の軍へ渡したのである。


だが、小山も新田も結城も戦場を離れたわけではない。


小田原へ送ったのは北条の残兵と、これ以上戦えない負傷者だった。


動ける者は箱根に残った。


小山義広軍。


新田軍。


結城朝基軍。


そこへ、それまでほとんど消耗していない箱根軍が加わる。


その中心に真壁幹久。


そして弟、笠間幹永。


状況は変わった。


駿河では退きながら戦った。


追いつかれれば止まり、戦い、また退いた。


もう、その必要はない。


箱根には陣地がある。


兵糧がある。


交代できる兵がいる。


負傷者を小田原へ送る道もある。


何より――。


ここから先は坂東だった。


物見が西から駆け戻ってきた。


「来ます」


幹久が尋ねた。


「どちらだ」


「織田、徳川、ともに動いております」


小山が立ち上がった。


新田も来た。


休んでいた結城朝基も、再び具足を整えた。


笠間幹永はすでに持ち場へ向かっていた。


真壁幹久は、西へ続く山道を見た。


ここまで小山たちは、何度も敵を退けた。


だが敵には駿河、遠江、三河があり、さらに織田は甲斐を固めつつある。


戦えば傷つく。


傷ついても補充する。


押し返しても、また来る。


その繰り返しだった。


ならば、今度はこちらが同じことをする。


傷ついた兵は小田原へ送る。


新しい兵を前へ出す。


兵糧を運ぶ。


武具を補う。


陣地で受ける。


追われ続けた軍勢は、ようやく自分たちの補給線へたどり着いたのである。


北条の負傷兵を乗せた一団が、小田原へ向かって山を下っていく。


北条氏邦も、その列とともに東へ消えていった。


その背後で、箱根の陣地に兵が入る。


小山。


新田。


結城。


笠間幹永。


そして箱根軍司令、真壁幹久。


駿河では北条を救うために戦った。


長篠では包囲を破るために戦った。


駿河城からは帰るために戦った。


箱根までの道では、傷ついた者を一人でも多く坂東へ連れ帰るために戦った。


だが、ここからは違う。


もう退きながら戦う必要はない。


真壁幹久は西を見た。


その隣へ、弟の笠間幹永が戻ってきた。


兄弟の前には、あらかじめ築かれた箱根の陣地が広がっている。


追われ続けた者たちは、ようやく振り返った。


そして今度は――。


織田と徳川が来るのを、箱根で待った。

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