九月――駿河城の残兵
九月――駿河城の残兵
新田が追撃を遮り、小山が北条勢を引き取った。
そこから先は、逃走ではなかった。
急げば隊列が崩れる。
負傷者が置き去りになる。
何より、掛川から何度も戦い続けた北条勢には、もう走る力が残っていなかった。
新田と小山は歩調を合わせ、緩やかに東へ下がった。
追ってくる織田勢が近づけば新田が止まり、小山が北条勢を先へ送る。
距離が開けば、また下がる。
小山勢も消耗していた。
新田勢だけが比較的まとまっていたが、それとて川越から急行してきたばかりである。
無理に戦う理由はなかった。
いま必要なのは一人でも多く連れて帰ることだった。
やがて駿河城が見えた。
城門が開かれた。
まず北条勢が入る。
続いて小山。
最後に新田が入り、門が閉じられた。
ようやく追撃から切れた。
だが、城内へ入ってみれば、安堵できるような有様ではなかった。
負傷者が次々と運び込まれる。
家臣が主人を探して歩く。
主人が家臣を探している。
旗指物だけ戻ってきて、その持ち主がいない隊もあった。
掛川を突破したときから、まともな点呼などできていない。
長篠へ戻ったところで織田勢に挟まれた。
そこへ小山が突入した。
包囲を破った直後には追撃を受け、新田に救われてここまで来た。
誰が生きているのか。
誰が死んだのか。
誰が別の道を通っているのか。
誰にも分からなかった。
城内で、ようやく確認が始まった。
そして一つの名を巡って、人が走り始めた。
北条氏政。
いない。
最初は、別隊にいると思われた。
次に負傷者の中を探した。
いない。
小山方にも問い合わせた。
見ていない。
新田方にも確認した。
こちらにもいない。
やがて、掛川から長篠へ至る混乱の中で氏政を最後に見た者たちの証言が集まり始めた。
それでも、しばらく誰も口にしようとはしなかった。
だが、確認を重ねても結果は変わらなかった。
北条氏政、討死。
それが駿河城で確定した。
城内が静かになった。
あれほど騒がしかった負傷者の声や、兵を呼ぶ声まで、一瞬遠くなったように感じられた。
掛川では突破した。
長篠でも抜けた。
だから皆、北条軍は大損害を受けながらも帰ってきたと思っていた。
違った。
軍勢だけではない。
その中心まで失っていた。
さらに諸将の所在を確認していく。
名のある者ほど、帰ってこない。
生き残った北条一門の中で、軍勢をまとめられる者は限られていた。
最後に残った名があった。
北条氏邦。
もはや北条軍の再建を担える者としては、氏邦くらいしか残っていなかった。
小山義広は、城内に集まった北条勢を見渡した。
救った。
確かに救った。
だが、これは救援に成功した軍勢の姿なのか。
掛川からここまでに北条が失ったものは、あまりにも大きかった。
新田も同じものを見ていた。
川越で織田勢と睨み合っていたころには、まだこの戦を「北条への援軍」と考える余地があった。
いまは違う。
北条だけで戦線を支えることは、もうできない。
氏治が正式参戦を表明した意味が、ここに来て現実のものとなった。
一方、織田・徳川は急がなかった。
北条を追ってそのまま駿河城へ殺到することはしなかった。
甲斐にはまだ整理すべき土地が残っている。
迂回軍を通しただけでは、その土地を押さえたことにはならない。
街道を確保する。
城を落とす。
在地勢力を従わせる。
兵糧の道を通す。
甲斐を後方として使えるようにしなければ、駿河へ入り込んだ織田軍そのものが危うくなる。
信長はまず甲斐を平らげ始めた。
徳川もまた、北条軍が駿河城へ入ったからといって、無理な追撃をしなかった。
北条軍は壊れている。
氏政も死んだ。
ならば急ぐ必要はない。
甲斐を固めながら、駿河城への道を一つずつ押さえていけばよい。
数日が過ぎるにつれて、駿河城の周囲から自由な道が減っていった。
一方から織田。
一方から徳川。
だが、まだ総攻撃はない。
城を完全に締め上げるでもなく、逃げ道をすべて塞ぐでもなく、少しずつ陣が近づいてくる。
北条勢にとっては、その方が不気味だった。
昨日まで通れた道に、今日は物見がいる。
昨日まで見えなかった場所に、今日は旗がある。
遠くにあった徳川の陣が、気づけば近くなっている。
甲斐方面からは、織田が次々と土地を押さえているという知らせが入る。
駿河城は、緩やかに囲われ始めていた。
それでも新田と小山は動かなかった。
ここで打って出れば、北条軍を守る者がいなくなる。
小山勢もすでに傷ついている。
新田勢は比較的健在だったが、それだけで織田・徳川双方を相手にすることなどできない。
ならば待つしかない。
氏治は参戦を表明している。
それは言葉だけではない。
小田本軍が来る。
新田と小山はそう信じて、駿河城に留まった。
氏邦は残った北条勢をまとめる。
小山は城内の防備を確認する。
新田は城外の織田・徳川の動きを探らせる。
誰も勝とうとはしなかった。
いま勝つ必要はない。
城を保つ。
北条の残兵をこれ以上減らさない。
そして援軍が来るまで時間を買う。
それだけだった。
城外では、織田と徳川の旗が日に日に増えていった。
城内では、氏政を失った北条勢が黙々と傷を治していた。
そして新田と小山は待った。
東を見ながら。
小田氏治が来るのを。




