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九月――退路なき突破

九月――退路なき突破


甲斐から、織田軍がなだれ込んできた。


もはや物見の誤報でも、陽動でもなかった。


峠を越えてくる旗は途切れず、先陣が駿河へ降りるころには、その後ろから次の隊が姿を現した。


川越へ向かった織田勢が少なかった理由は、完全に明らかになった。


主力はこちらにいた。


甲斐から南へ。


北条軍の後ろへ。


掛川では、北条軍と徳川軍がなお睨み合っていた。


長く続いた陣地戦である。


徳川は押し、北条は耐えた。


互いに相手の陣地を知り、街道を知り、川を知り、攻めればどれほどの犠牲が出るのかまで知っていた。


だが、その均衡はもう意味を失っていた。


甲斐から織田軍が降りてくる。


北条方でも、当然、後退は検討された。


掛川を捨てる。


徳川との接触を切り、東へ下がる。


軍勢を立て直して、改めて織田・徳川を迎え撃つ。


平時なら、それが当然だった。


だが遅かった。


後ろには、すでに織田勢がいる。


いま退けば、退却する軍勢の側面、あるいは正面に織田軍が現れる。


荷駄を伴い、負傷兵を抱え、陣を解いた直後の北条軍がそれを受ければ、戦ではなく崩壊になる。


北条方は地図を囲み、そして逆の結論を出した。


後ろへは行けない。


ならば――前へ行く。


目の前には徳川がいる。


長く戦ってきた敵である。


強い。


だが、少なくともどこにいるのか分かる。


どこに柵があり、どこに兵がいて、どこを破れば道が開くのかも知っている。


後ろから迫る織田軍に追いつかれる前に、徳川の正面を破る。


北条軍は、後方退却を捨てた。


前方突破を選んだ。


その瞬間から、掛川の戦はまるで別のものになった。


それまで北条は陣地を守っていた。


今度は北条が攻めた。


徳川方もすぐ異変を察した。


北条が押し返そうとしているのではない。


抜けようとしている。


ならば通してはならない。


徳川勢は柵を固め、鉄砲を集め、道を塞いだ。


北条勢がそこへ突っ込んだ。


長い睨み合いの間に互いが知り尽くした場所で、最後には策も何もなくなった。


押す。


止める。


倒れても、その後ろから押す。


一つの柵を破れば、その先にまた徳川兵がいる。


北条はそこにも兵をぶつけた。


犠牲は大きかった。


それでも止まらなかった。


止まれば、後ろから織田が来る。


徳川方も北条の必死さに押された。


ついに一角が崩れた。


北条勢はそこへ殺到した。


徳川軍が塞ぎ直すより早く、先頭が抜ける。


その後ろを次々と兵が通った。


隊列など、もう綺麗なものではなかった。


旗を失った隊もある。


具足を捨てた者もいる。


負傷者を肩に担いだまま走る者もいる。


それでも北条軍は抜けた。


掛川の徳川陣を正面から突破したのである。


勝利と言えば、勝利だった。


だが、誰も勝鬨を上げなかった。


北条軍はそのまま長篠城を目指した。


ようやく城へ入ったころには、軍勢は見る影もなく疲弊していた。


休まなければならない。


隊を組み直さなければならない。


負傷者を収容しなければならない。


ところが、時間はなかった。


北条が掛川を突破したという知らせを受け、織田方も動いていた。


甲斐から駿河へ回り込んだ織田軍。


そして正面戦線へ増援として送り込まれていた織田軍。


北条が長篠へ戻ったことで、その二つが今度は北条を両側から圧迫する形になった。


掛川を抜けた。


それで終わりではなかった。


一つ目の挟撃を抜けた先で、二つ目の挟撃が待っていた。


北条軍は戦った。


だが、もう掛川へ入ったころの軍ではなかった。


兵は疲れている。


負傷者が多い。


部隊同士が混ざっている。


矢も鉄砲玉も減っている。


何より、掛川突破で精も根も使い果たしていた。


そこへ織田軍が圧力をかけた。


長篠周辺で北条勢は再び包囲され始めた。


今度こそ危なかった。


そのときだった。


東から、新しい旗が現れた。


小田勢である。


先頭にいたのは小山義広だった。


もともと小山は北条との折衝を担当し、北条への与力として出向していた。


だが、氏治が正式参戦を表明した時点で立場は変わっている。


いまの小山は使者ではない。


小田氏治から正式に兵を預けられた、小田軍の将だった。


小山勢は北条軍と合流するため、そのまま織田勢へぶつかった。


北条を救うには、包囲の外から穴を開けるしかない。


内側から北条が押す。


外側から小山が押す。


織田勢も当然そこへ兵を集めた。


小山軍も無傷では済まなかった。


むしろ、北条を逃がすために正面から戦った分、急速に兵を消耗した。


それでも穴は開いた。


「出ろ!」


北条勢が動いた。


もはや陣形を整えてからなどと言っていられない。


動ける者から抜ける。


負傷者を抱え、旗を拾い、残った荷を捨て、北条勢は小山軍がこじ開けた道へ殺到した。


包囲は破れた。


しかし、その代償は大きかった。


北条軍は、もはや「ズタボロ」としか言いようがなかった。


掛川で徳川を突破し、長篠へ戻り、そこでまた織田軍に挟まれ、さらに包囲を破った。


三度続けてまともに戦える軍ではない。


小山軍も同じだった。


北条を救うために織田勢へ食い込み、包囲をこじ開けたことで、こちらも消耗していた。


ここから先は退くしかない。


小山は北条勢を伴って東へ退却を始めた。


だが織田も逃がさなかった。


追撃が始まった。


小山勢が殿となった。


退く。


止まる。


追いつかれれば戦う。


また退く。


小山軍は少しずつ削られた。


北条勢を先に行かせれば行かせるほど、小山勢に敵が集中する。


それでも小山は退いた。


ここで北条を失えば、何のために来たのか分からない。


だが、限界は近かった。


そのころ。


川越から、一軍が南へ急いでいた。


新田勢だった。


織田の川越別働隊が撤退したあとも、新田はすぐには動かなかった。


敵が戻ってくる可能性を警戒したからである。


だが、氏治が正式参戦を表明し、さらに甲斐の織田本隊が駿河へ南下したことが確実になると、川越を脅かしていた軍勢の役目も明白になった。


囮だった。


ならば、もう川越に全軍を置いておく必要はない。


新田軍は南へ動いた。


それでも距離がある。


間に合うかどうかは分からなかった。


掛川突破の知らせが来た。


続いて長篠で北条が再び囲まれたとの知らせ。


小山が包囲へ突入したとの知らせ。


さらに北条救出には成功したが、小山勢まで消耗して追撃を受けているとの知らせ。


新田勢は進んだ。


そして、小山軍がいよいよ苦しくなったところで――。


織田方の物見が、別方向に土煙を見つけた。


最初は退却する北条勢の別隊と思われた。


だが違った。


旗が違う。


小田勢だった。


川越にいたはずの新田軍である。


小山方からも、その旗が見えた。


「新田だ!」


声が上がった。


疲れ切っていた兵たちが振り返った。


新田勢は、そのまま小山軍と追撃する織田勢の間へ入った。


ここでも大勝負をする必要はなかった。


北条を逃がす。


小山を逃がす。


それだけでよい。


新田勢はまだ余力があった。


川越では織田別働隊と睨み合っただけで、本格的な戦闘をしていない。


その新田勢が、掛川から戦い続けている者たちの前へ入った。


小山軍にとって、これほどありがたい援軍はなかった。


「退け!」


今度は新田が言った。


小山が守ってきた北条勢をさらに東へ送る。


続いて小山勢が下がる。


最後に新田が織田勢と距離を取りながら退いた。


ようやく追撃が鈍った。


北条は助かった。


だが、その姿を見て「勝った」と言える者はいなかった。


掛川では徳川正面を突破した。


長篠では織田の包囲を突破した。


小山が救援に入り、新田まで間に合った。


軍事的には、何度も絶体絶命のところを切り抜けている。


それでも北条軍そのものは、見る影もなく傷ついていた。


兵が足りない。


馬が足りない。


武具が足りない。


何より人が疲れ切っている。


小山勢も傷ついた。


新田勢だけが、比較的まとまった兵力を残していた。


そして氏治は、まだ本隊を率いて戦場へ来ていない。


織田の迂回は成功した。


徳川の拘束も成功した。


北条を一度は完全に挟み込んだ。


それでも北条は消えなかった。


小田が入ってきたからである。


川越で織田を見ていた新田。


北条のそばにいた小山。


そして、その後ろには正式参戦を宣言した小田氏治がいる。


九月の戦は、ここで終わらなかった。


むしろこのとき初めて、織田と徳川は知ることになる。


北条を追い詰めたことで、自分たちは北条だけを相手にする戦を終わらせてしまったのだと。


ここから先は――小田との戦になる。

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