九月――二つ目の迂回
九月――二つ目の迂回
九月に入ると、武蔵から一報が届いた。
織田勢、川越方面に出現。
甲斐へ入った織田軍がそのまま東へ抜け、ついに武蔵へ姿を現したのである。
北条からの要請を受けた小田氏治は、すでに新田勢を川越へ向かわせていた。新田勢の役目は織田軍を追い払うことではない。
関東の内側へ、これ以上入れないことだった。
ほどなくして両軍は川越周辺で相対した。
だが、戦は始まらなかった。
新田勢は陣を固め、織田勢もまた一定の距離を保って動かない。時折、物見同士が接触する程度で、互いに鉄砲を撃ちかけることさえほとんどなかった。
新田方には追撃の命もなかった。
川越を空けて敵を追えば、別の織田勢が入り込むかもしれない。ならば、ここに居座っているだけでよい。
奇妙なのは、織田勢の数だった。
「……少ないな」
新田方でも、何人もの将が同じことを口にした。
甲斐を越え、武蔵へまで大きく迂回してきた軍勢だという。その割には、目の前に並んでいる旗があまりにも少ない。
後続がいるのか。
山中に伏せているのか。
それとも、まだ甲斐から出てきていないのか。
分からない以上、新田は動かなかった。
織田勢も攻めなかった。
そうして数日、川越では奇妙な睨み合いだけが続いた。
一方、駿河では徳川家康が相変わらず北条の陣地を押していた。
攻め方そのものは変わらない。
柵を一つ取ればそこで止まり、道を押さえ、調略を入れ、また次を押す。
北条も下がるところは下がり、守るところは守った。
長く戦ってきた相手同士である。
徳川が何を得意とするかを北条は知り、北条がどこまで耐えるかを徳川も知っている。
戦線は少しずつ動いている。
だが、崩れない。
家康はそれでも押した。
多少の犠牲が出ても押した。
北条から見れば、それまで何度も繰り返されてきた徳川の平押しに見えた。
だからこそ、甲斐から入った織田勢の動きに神経を使わざるを得なかった。
川越に敵が現れた以上、武蔵を無視することはできない。
ところが――。
川越で新田と織田勢が睨み合いを始めてから数日後、甲斐から別の報告が飛び込んだ。
織田勢の大軍が動いている。
東ではない。
南だった。
最初は誤報とも思われた。
だが、続けて同じ知らせが届いた。
甲斐に入っていた織田軍の主力が、武蔵へ向かわず南へ向きを変えている。
その先にあるのは駿河だった。
ここに至って、北条方はようやく気づいた。
川越にいる織田勢が少ない理由を。
川越へ現れた軍勢は、織田軍の本命ではなかったのである。
武蔵を脅かすには十分だった。
小田を動かし、新田を川越へ置かせるにも十分だった。
だが、北条を倒すための軍勢ではなかった。
本命は甲斐に残っていた。
そしていま、その本命が南へ折れていた。
駿河では徳川軍が北条軍の正面を押している。
そこへ甲斐から織田軍が降りてくる。
北条が徳川に向かって築いてきた陣地の、その後ろへ。
北条軍の陣中に地図が広げられた。
誰もが同じ場所を見た。
前には徳川。
後ろには織田。
しかも徳川は攻撃を止めない。
これまで単調なほど同じように押し続けてきた理由まで、ここにきて別の意味を持ち始めた。
北条を倒すためだけに押していたのではない。
北条をここから動かさないために、押していたのではないか。
徳川の圧力を嫌って後退すれば、その分だけ織田との距離が縮まる。
逆に織田を迎え撃つため兵を北へ抜けば、徳川が陣地を食い破る。
北条にとって最も危険な形が、完成しようとしていた。
その知らせは小田にも届いた。
すでに小山は北条担当として出向していたが、北条から援軍要請が届いた段階で氏治はその立場を改めていた。
単なる北条への与力ではない。
小田家から正式に兵を与え、小田軍を率いる将として改めて北条方面へ任じたのである。
川越には新田。
北条には小山。
ここまでは、あくまで北条からの要請に応じた限定的な援軍だった。
だが、甲斐から織田本隊が駿河へ南下していると分かると、氏治はついに判断を変えた。
諸将を前にして、氏治は告げた。
「これよりは北条殿への与力ではない」
短い言葉だった。
「小田も戦う」
これをもって、小田氏治は織田・徳川との戦いへの正式な参加を表明した。
小山に預けた兵だけの戦ではなくなった。
新田だけに関東の入口を守らせる戦でもなくなった。
小田家そのものが戦争の当事者となったのである。
その知らせは、川越にも届いた。
そして奇妙なことが起こった。
新田勢の前にいた織田軍が、下がり始めたのである。
最初、新田方は罠を疑った。
追わなかった。
一里退いても追わない。
さらに退いても追わない。
織田勢もまた、新田を誘うような動きを見せなかった。
陣を払い、順序よく西へ引いていく。
やがて川越から織田の旗が消えた。
勝鬨は上がらなかった。
戦っていないからである。
新田は川越を守った。
織田も新田を破ろうとはしなかった。
互いにほとんど兵を失わないまま、川越での対陣は終わった。
だが、それこそが不気味だった。
織田は何のために、わざわざここまで来たのか。
その答えは、すでに駿河へ向かっていた。
新田を川越に置かせるためである。
武蔵が危ういと思わせるためである。
北条と小田の目を、一度北へ向けるためである。
そして、その間に本隊を南へ向ける。
川越を取る必要など、初めからなかったのかもしれない。
あるいは取れるなら取るつもりだったのかもしれない。
だが、新田が出てきた以上、そこで戦う理由もなかった。
織田軍は川越を迂回したのではない。
川越への迂回そのものを囮にして、もう一度迂回したのである。
そして駿河では、その意味を最も早く理解した者の一人が徳川家康だった。
これまで徳川勢には、押せるところまで押せという命が出ていた。
無理に一度で破る必要はない。
調略が通じるなら調略を使う。
陣地を一つ取れるなら一つ取る。
北条が耐えるなら、こちらも耐える。
だが、甲斐から織田軍が南下を始めた。
もう役目が違った。
北条を押すのではない。
北条をここに置いておかなければならない。
北条軍が織田勢へ向かって転進する時間を与えてはならない。
徳川の陣中で命令が変わった。
これまでより損害が出ても構わない。
柵を破れ。
陣を押せ。
北条に兵を抜かせるな。
九月。
長く続いた陣地戦が、ようやく大きく動き始めた。
正面では徳川。
背後へ回る織田。
その間に北条。
そして、その外側から小田が正式に戦場へ入ってくる。
川越から織田の旗は消えた。
だが、それは迂回が失敗したからではなかった。
最初の迂回は、すでに役目を果たしていた。
本当の迂回は――これからだった。




