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天正三年八月――均衡を崩す

天正三年八月――均衡を崩す


八月。


七月いっぱい動かなかった東海道の戦線が、ようやく動いた。


動かしたのは徳川だった。


家康は、それまでのやり方を捨てた。


調略する。


帰参を促す。


北条が下がったところまで進む。


陣を築く。


六月までは、それでよかった。


だがもう、帰ってくる者はいない。


ここから先にいるのは北条の臣であり、北条の領民だった。


ならば――押すしかない。


徳川勢が北条の防衛線へ近づいた。



---


北条方も、すぐに異変に気づいた。


これまでの徳川なら、鉄砲を撃ち合って北条が退かなければ、自分たちも陣へ戻った。


今度は違う。


撃たれても下がらない。


土塁へ近づく。


北条が撃つ。


倒れる。


それでも次の兵が前へ出る。


柵へ取りつく。


北条兵が槍で突き返す。


徳川も引かない。


「来たか」


氏政はそう言ったという。


これまでとは違う戦が始まった。



---


もちろん家康も、ただ兵を捨てているわけではなかった。


一つの陣地を一度で奪おうとはしない。


昼に押す。


夕方に下がる。


翌朝また出る。


鉄砲を少し前へ。


柵を少し前へ。


夜の間に土を掘る。


翌日は、昨日より十間前から戦を始める。


一日では、ほとんど何も変わらない。


だが三日。


五日。


十日。


少しずつ徳川の陣が北条へ近づいていく。


北条も応じた。


前の陣が危険になれば後ろへ移る。


予備隊を入れる。


夜の間に柵を直す。


空堀を掘り直す。


小田との長い軍事交流の中で培ってきた縦深の防衛線が、ここで初めて本格的に働いた。


徳川が一つ押す。


北条が一つ受ける。


また徳川が押す。


また北条が受ける。


七月の静けさとは正反対だった。


しかし――


戦線そのものは、驚くほど動かなかった。



---


兵庫津へ報告が届く。


少弐は顔をしかめた。


「家康殿、無理してない?」


渡辺が答える。


「損害は六月までとは比べものにならぬとか」


「北条は?」


「こちらも出ております」


少弐は地図を見た。


不思議だった。


家康は慎重な男である。


六月まで、勝てる方法を淡々と繰り返していた。


それが通じなくなった途端、


急に兵の損害を許容してまで正面を押し始めた。


「なんで急ぐんだろう」


四十郎が言った。


「信長公がおられるからでは?」


「それだけかな」


少弐は首を傾げた。


だが、答えは出なかった。



---


北条陣でも同じ疑問が出ていた。


「徳川は焦っております」


そう報告する将がいた。


確かにそう見えた。


家康は兵を失っている。


それでも攻撃を止めない。


ならば北条は耐えればよい。


氏政は兵を前へ出しすぎなかった。


「追うな」


徳川が下がっても追撃しない。


柵から出ない。


敵が来る場所でだけ戦う。


これは北条が望んでいた戦だった。


一日で徳川兵を百人倒せるなら、十日で千人。


二十日ならさらに増える。


徳川が自分から消耗してくれる。


北条方には、そう見えていた。



---


そして八月半ば。


奇妙な報告が氏政のもとへ入った。


西の山中で、兵を見たという。


最初は無視された。


野盗かもしれない。


地侍かもしれない。


徳川の斥候が深く入り込んだだけかもしれない。


だが二つ目が来た。


さらに三つ目。


甲斐方面の道で、見慣れぬ兵が動いている。


「徳川か?」


違うらしい。


旗を隠している。


土地の者を捕まえて道を聞いている。


兵糧を大量に買い集めている。


氏政はそこで初めて地図を広げた。



---


同じころ。


兵庫津にも、まったく別のところから妙な知らせが届いた。


松浦だった。


「少弐殿」


「今度はなに?」


「岐阜から出た荷がございます」


「荷?」


「大量の兵糧です」


少弐は顔を上げた。


「東海道?」


「それが……違うようで」


松浦は地図を指した。


岐阜。


そこから東海道へ南下しない。


山へ向かっている。


少弐は指でその先を追った。


「……甲斐?」


松浦は頷いた。


「おそらく」


少弐は黙った。


そこで初めて、八月の戦が違って見えた。



---


家康は正面で兵を出している。


損害を受けながら北条を押す。


北条はそれを受け止める。


氏政の目も、諸将の目も、兵も、予備隊も――徳川へ向く。


だが信長は。


信長のすべての兵が、そこにいる必要はなかった。


織田勢の一部は、すでに岐阜方面から動いていた。


山道を使い、


甲斐へ入る。


そこから北条の側背へ回り込む。


目指しているのは北条の柵ではない。


城でもない。


駿河へ続く道だった。


少弐は地図を見たまま呟いた。


「家康殿が押してるんじゃない」


四十郎が尋ねる。


「では?」


「押させてるんだ」


徳川が正面から圧力をかけ続ければ、北条は兵を抜けない。


抜けば家康が前へ出る。


だが、その間に織田が甲斐から回る。


北条が気づいたころには、


前には徳川。


横には織田。


そして後ろの駿河への道まで脅かされる。


北条軍を正面から破る必要など、最初からなかった。



---


八月末。


氏政のもとへ、ようやく確かな知らせが届いた。


織田勢、甲斐へ入る。


氏政は地図を見た。


正面には徳川。


後ろには駿河。


その間へ、織田が降りてこようとしている。


五月に一歩退いたときとは違う。


六月とも違う。


七月とも違う。


今度は土地を取られる話ではなかった。


軍そのものの退路を失う可能性が出てきた。


それでも氏政は、まだ退却を命じなかった。


ただ一言、


「兵糧を後ろへ送れ」


と命じた。


そしてもう一つ。


「小田へ早馬を出せ」



---


兵庫津。


少弐は八月の記録を書いた。


徳川、損害を顧みず北条陣を押す。北条、これを支う。


そこまで書いて、一行空けた。


そして、


織田、密かに岐阜より甲斐へ入る。


さらに、


徳川の攻勢、陽動なりしか。


と書いた。


少弐は筆を置いた。


七月まで、戦は一本の線だった。


東から北条。


西から徳川。


互いに押し合うだけだった。


八月。


その地図に、北からもう一本の矢が伸びた。


均衡はまだ崩れていない。


だが――


均衡を支えていた地面そのものが、北条の背後で動き始めていた。

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