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天正三年七月――誰も門を開けなくなった

天正三年七月――誰も門を開けなくなった


天正三年七月。


東海道の戦は、六月までと同じように見えた。


徳川勢が前へ出る。


北条勢が必要のない陣を捨てる。


徳川は空いた土地へ兵を入れ、柵を立てる。


織田勢はその後ろを固める。


そして家康は、北条へ下っていた旧臣へ使者を送り続けた。


戦わずして戻る城もあった。


かつて徳川に仕えた地侍が帰参し、その縁を頼って隣村まで徳川方へ転じる。


北条の旗が降ろされ、徳川の旗へ替わる。


戦場だけを見れば地味だった。


だが地図の上では、確実に徳川の色が東へ広がっていた。


信長も急がせなかった。


押せるのなら押せばよい。


敵が退くなら、退かせればよい。


北条の堅い陣へわざわざ兵を投げ込む理由などなかった。


ところが七月半ば。


それが、突然止まった。



---


徳川の使者が帰ってきた。


返事はない。


別の城へ送った使者も戻った。


「北条殿を離れる意思なし」


さらに別の地侍からも、


「御厚意はありがたし。されど御受けできぬ」


と返された。


家康は、もう一度使者を出した。


条件を少し良くする。


旧領安堵だけではない。


北条へ従った過去も問わない。


早期に帰参すれば、家中での扱いも考慮する。


それでも動かなかった。


六月までなら一人が動けば、その親類が動いた。


親類が動けば、その周辺の小城が揺れた。


七月は違った。


誰も門を開けなくなった。



---


北条氏政が特別な命令を出したわけではない。


裏切った者の一族を皆殺しにしたわけでもない。


ただ、土地が変わったのである。


ここから先は、徳川が失った土地ではない。


長く北条の支配を受けてきた土地だった。


北条から禄を得た者。


北条の裁定で土地を守られた者。


北条の城普請に加わった村。


小田との共同戦線へ兵を出した家。


彼らにとって氏政は、遠くからやって来た征服者ではなかった。


自分たちの殿だった。


徳川が旧臣へ、


「戻ってこい」


と言える土地は終わった。


ここから家康が言えるのは、


「こちらへ下れ」


でしかない。


似ているようで、その二つはまるで違った。



---


氏政も、それを分かっていた。


だから天神山方面へ引いたあと、それ以上は容易に下がらなかった。


新しい防衛線には、五月までのような広さがない。


守る道を絞る。


柵を置く。


土塁を築く。


空堀を掘る。


鉄砲を集める。


後ろには予備の陣地まで作らせた。


前の陣を抜かれても、その次がある。


そこを抜かれても、さらに後ろで止める。


小田と長く軍事交流を続け、ともに幾度も戦場へ立った北条軍にとって、それは珍しい戦い方ではなかった。


そして今度は、土地の者たちも逃げなかった。



---


徳川勢は、それでも平押しを続けた。


一つ前へ。


北条の小さな前哨が退く。


徳川が入る。


また一つ前へ。


今度は北条が退かない。


鉄砲が鳴った。


徳川も撃ち返した。


しばらく撃ち合い、双方が引く。


翌日。


また徳川が出る。


北条は同じ場所にいる。


その翌日も。


同じだった。


大敗したわけではない。


徳川軍の損害も小さい。


だが――


進まない。



---


信長が前線へ出て、北条の陣を遠くから眺めた。


柵。


その後ろに土塁。


道は狭められている。


鉄砲を撃つ場所も考えて作られていた。


さらに後方にも人影がある。


一つ目の陣だけではない。


信長はしばらく眺めたという。


そして家康に、


「ここより先にも、まだあるのか」


と尋ねた。


家康は答えた。


「おそらく」


「いくつじゃ」


「分かりませぬ」


信長は笑った。


「ならば、数えるために兵を死なせることもあるまい」


織田徳川も、攻めなかった。


こうして戦線は止まった。



---


その知らせが兵庫津へ届いたのは、七月も終わりに近いころだった。


渡辺の報告を聞いた少弐は、最初、不思議そうな顔をした。


「徳川が負けた?」


「いいえ」


「北条が押し返した?」


「それもございません」


「じゃあ?」


渡辺は少し考えて答えた。


「止まりました」


少弐は地図を見た。


五月から六月にかけて、徳川はずいぶん東へ進んでいる。


戦で奪った土地ばかりではない。


多くは帰参と調略によって戻った土地だった。


だが七月の線だけが動いていない。


「寝返りは?」


「ございません」


「一人も?」


「大きなところでは」


少弐はそこで気づいた。


「ああ」


四十郎が顔を上げる。


「何か?」


「徳川の土地が終わったんだ」



---


そこから先は北条の土地である。


ならば同じ方法は通じない。


北条へ下った徳川旧臣を帰参させる戦から、


北条の臣を徳川へ寝返らせる戦へ変わった。


そして、それは簡単ではなかった。


少弐は地図の七月の前線へ線を引いた。


「氏政殿、ここを選んで下がったのかな」


「その可能性はございましょう」


「だとしたら上手いな」


負けたから下がった。


それだけではない。


下がれば強くなる場所まで下がった。


前線を縮めれば兵を集中できる。


兵站も短くなる。


そして住民の支持も強くなる。


北条にとって、五月より七月の方が領土は狭い。


しかし軍事的には、むしろ堅くなっていた。



---


月末。


少弐はいつもの記録帳を開いた。


六月までの記録の下へ書く。


七月。徳川、なお東進す。北条、前哨を順次収む。


続けて、


されど月半ばより旧臣の帰参止む。諸城、徳川の誘いに応ぜず。


少弐は筆を止めた。


それから一行を加えた。


徳川の旧領、ここに尽きたるか。


そして最後に、


北条、新たな防衛線より退かず。織田徳川も強攻せず。戦線止まる。


と書いた。


三月から始まった戦だった。


徳川は負けていない。


むしろ多くの土地を取り戻した。


北条も壊れていない。


主力を保存し、守りやすい場所まで下がった。


織田も大軍を失っていない。


誰も決定的に負けてはいない。


それなのに、誰も前へ進めなくなった。


少弐は地図を閉じた。


「さて」


四十郎が聞く。


「どうなさいます?」


「俺は何もしないよ」


少弐は答えた。


そして東を指した。


「困るのは、あっちだ」


これまで家康は、同じことを続ければ勝てた。


調略する。


帰参させる。


前へ出る。


陣を作る。


また調略する。


だが七月。


そのやり方が、初めて通じなくなった。


ならば次に必要になるのは――


違う戦い方だった。

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