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天正三年五月――柵と土塁の長篠

天正三年五月――柵と土塁の長篠


天正三年五月。


東海道から兵庫津へ届いた知らせは、誰もが想像していたような大決戦の報ではなかった。


織田信長が徳川家康の求めに応じて東海道へ入り、北条氏政と対峙した。


だが――戦わない。


正確には、小競り合いは絶えない。


鉄砲は鳴る。斥候同士がぶつかる。夜になれば敵陣を探る者も出る。


それでも、互いの主力は動かなかった。


織田方は柵を設けた。


土を盛り、鉄砲を配置し、徳川勢とともに街道や渡河点を固める。


北条が攻めてくるなら、十分に引きつけてから叩く。


それは信長が得意とする戦だった。


ところが――


北条は来なかった。



---


「北条も陣を固めている?」


清盛館で報告を受けた少弐は聞き返した。


渡辺が頷く。


「はい。柵、土塁、空堀。ところによっては道そのものを狭めているとか」


少弐は思わず笑った。


「そりゃ、そうなるか」


北条は小田の戦い方を知っている――などという程度ではない。


もっと深い関係だった。


北条は早い時期から小田と同盟し、長年にわたって同じ戦場へ立ってきた。


ともに兵を出した。


同じ街道を守った。


陣を並べた。


兵糧を融通した。


時には互いの軍勢が混じって戦った。


当然、軍事的な交流も長い。


坂東で発達した陣地構築、鉄砲運用、兵站、築城、街道防衛についても、互いに見せ合い、学び合ってきた。


北条軍の中には、小田勢とともに戦った経験を持つ将も珍しくない。


だから氏政には分かっていた。


敵が固めた場所へ、正面から突っ込んではならない。


信長が柵を作った。


ならば北条も作ればよい。


徳川が土を掘った。


ならばこちらも掘る。


敵が出てこない。


こちらも出なければよい。



---


長篠は奇妙な戦場になった。


西側では織田・徳川勢が柵の内側にいる。


東側では北条勢が陣地を連ねる。


互いに鉄砲を持っている。


互いに騎兵もいる。


互いに大軍である。


だが、誰も決定的な攻撃をしない。


敵の柵を壊すために兵を失うくらいなら、敵が出てくるのを待つ。


北条も同じことを考える。


そのため、


「長篠で大軍が激突する」


という話を聞いていた者たちにとっては、拍子抜けするほど戦線が動かなかった。


少弐は地図の両側に線を引いた。


「こっちが織田・徳川」


「はい」


「こっちが北条」


「はい」


「……いつまでこれやるの?」


渡辺は答えられなかった。


四十郎が横から、


「兵糧の続く限りでは」


と言った。


「嫌な答えだなあ」



---


だが、戦場そのものが動かなくても、戦争は動いた。


原因は土地だった。


徳川家康にとって、この戦は単なる領土拡張ではない。


北条が支配する地域の中には、もともと徳川の勢力下にあった土地がある。


そこには、徳川に仕えていた者もいる。


戦況が変わったため北条へ下った。


家を残すため。


領地を守るため。


一族を生かすため。


そうして北条に従っていた将たちだった。


彼らに対して、家康が手を伸ばした。



---


密使が行き交った。


昔の縁が使われた。


親類が仲介した。


寺が間に入ることもあった。


家康から伝えられた条件は悪くなかった。


帰参すれば、以前北条へ下ったことを強く問わない。


働き次第では旧領も認める。


早く帰った者ほど扱いを良くする。


最初は皆、様子を見た。


北条は強い。


氏政の軍は崩れていない。


背後には小田との同盟もある。


何より北条は、すでにこの土地を何年も支配している。


ところが、織田の大軍が来ても北条は攻めない。


徳川も攻めない。


戦線が止まった。


だからこそ、考える時間ができてしまった。


そして一人が動いた。


かつて徳川に仕え、その後北条へ下った将が、再び家康へ帰参した。



---


北条陣中に衝撃が走った。


だが氏政は、それだけで陣を崩さなかった。


一人なら一人である。


ところが二人目が出た。


さらに、その一族。


家臣。


近隣の小城。


村。


それまで北条へ兵糧を運んでいた者たちまで、少しずつ態度を変え始めた。


昨日まで北条の道案内をしていた者が、今日は徳川へ道を教える。


北条へ米を出していた村が、


「今年は余分がございませぬ」


と言い始める。


小城が北条の使者に門を開けなくなる。


北条軍は負けていない。


それなのに、


北条の前にある土地だけが、少しずつ徳川へ戻っていった。



---


その知らせを聞いた少弐は、地図をしばらく眺めてから言った。


「これ、氏政殿にはきついな」


四十郎が尋ねた。


「軍は健在なのでしょう?」


「だからだよ」


戦って負けたなら、戦い直せばよい。


城を取られたなら、取り返せばよい。


だが、人の心が移るのは違う。


北条にとっては敵地に近い。


徳川にとっては失地である。


同じ土地を見ていても意味が違う。


北条兵にとっては、


「ここまで来て守っている土地」


である。


徳川兵にとっては、


「取り返す土地」


だった。


長く睨み合えば、その差が出る。



---


氏政も、それを理解した。


だから無理をしなかった。


信長の柵へ突撃して決着をつけることもしない。


寝返った将を取り返すために軍を分散させることもしない。


まず兵糧を後方へ移した。


負傷者を送った。


使わなくなる陣地から鉄砲と火薬を回収した。


次に前線を少し縮める。


一つ下がる。


そこで止まる。


また次の隊を下げる。


殿には、徳川勢が追ってきてもすぐには突破できないだけの兵を残す。


撤退そのものが、一つの軍事行動として組み立てられていた。


このあたりにも、小田との長年の軍事交流が表れていた。


勝てない場所を守り続けない。


だが、


退くと決めたからといって、軍を崩さない。


氏政は戦場を捨てたのではない。


戦場を選び直したのである。



---


向かった先は、天神山方面だった。


北条勢はそこで再び止まった。


街道を確認する。


川を見る。


高低差を見る。


後方から兵糧を運べる道を確保する。


そして――


また掘り始めた。


柵を立てる。


土塁を築く。


空堀を設ける。


鉄砲を置く場所を決める。


兵の交代場所を作る。


前線から戻ってきた部隊を順番に収容する。


徳川へ戻り始めた土地は、いったん諦める。


その代わり、


ここから先へは入れない。


新しい防衛線だった。



---


織田・徳川勢も、すぐには追わなかった。


北条軍は潰走していない。


追えば、今度は北条が待ち構える陣地へ自分たちが入ることになる。


信長も家康も、それが分からない将ではなかった。


だから織田・徳川も陣を整えた。


斥候を出す。


北条の新しい防衛線を探る。


鉄砲を前へ送る。


そしてまた――


止まった。


五月の長篠は、そうして終わろうとしていた。



---


月末。


少弐は三月から続けている記録帳を開いた。


三月。


徳川、織田へ援軍を請う。


四月。


織田勢、東海道へ動く。


そして五月。


少弐は筆を取った。


長篠、織田徳川・北条ともに陣を固め、主力決戦に至らず。


その下へ、


北条、小田との長年の同盟・軍事交流あり、陣地戦に慣る。織田の柵に攻め寄せず。


さらに続けた。


徳川旧臣のうち北条へ下りし者、再び徳川へ帰参。旧領の人心、次第に徳川へ戻る。


そして最後に、


北条氏政、劣勢を察し天神山方面へ兵を引く。軍列乱れず。後方に新たな防衛線を築く。


少弐は筆を置いた。


「負けたのかな」


渡辺が聞いた。


少弐は少し考えた。


「長篠では、北条殿が一歩負けたんだと思う」


だが、それで戦争が終わったわけではない。


氏政は軍を失っていない。


信長も無理に追っていない。


家康は失地の一部を取り戻した。


北条は、守るべき線を後ろへ引き直した。


そして両軍は再び、


柵の向こうから相手を見ている。


長篠で起きたのは、華々しい一日の決戦ではなかった。


二十年近く小田と肩を並べて戦ってきた北条と、陣地を用いて勝機を待つ織田徳川が、互いに相手の陣へ飛び込まなかった戦いだった。


勝敗を動かしたのも、鉄砲の数ではない。


土地だった。


そこに住む人だった。


そして、


「ここは誰の国だったのか」


という記憶だった。


北条氏政は、それを見誤らなかった。


だから一歩退いた。


退いて、また土を掘った。


戦はまだ――終わっていなかった。

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