天正三年五月――長篠からの早馬
五月。
兵庫津では田植えの支度が始まっていた。
戦で崩された畦を直し、水路を通し、村へ戻った者には牛や農具を融通する。瀬戸内評定では相変わらず、橋、種籾、材木、人足、借銭の話が延々と続いている。
少弐は、その退屈さをありがたいと思うようになっていた。
戦の最中には、
「明日までに三千人分の米を」
「敵がどこまで来た」
「橋を落とせ」
そんな話ばかりだった。
いまは、
「橋を架けろ」
である。
同じ橋でも、ずいぶん違う。
その日も清盛館では、四十郎が復興の書付を処理し、松浦が貸付の帳面を広げていた。
少弐は西海会社から上がってきた交易の報告を眺めていた。
そこへ渡辺が駆け込んできた。
「東海道で、戦になりました」
少弐は顔を上げた。
「とうとう?」
「はい」
渡辺は一枚の書状を差し出した。
だが内容はひどく曖昧だった。
徳川と北条が三河方面で激突。
そこへ織田勢が到着。
大軍同士の戦になった。
それだけである。
勝敗については、
徳川方大勝。
別の書状には、
北条なお健在。
さらに別の商人は、
織田の鉄砲によって北条勢壊滅。
とまで書いていた。
少弐は三枚並べた。
「どれ?」
渡辺が答えた。
「分かりません」
「だよね」
戦の知らせとは、だいたいこういうものだった。
勝った側は大勝と書く。
負けた側は整然と退いたと書く。
商人は街道が開いたかどうかを気にし、寺社はどこの村が焼けたかを書く。
誰も戦場全体など見ていない。
「場所は?」
「長篠というところだそうです」
少弐は地図を探した。
「……ここ?」
「そのようです」
駿河でも掛川でもない。
戦線が三河の山間へ動いていた。
四月まで兵庫津で眺めていた線が、そこで一気に折れ曲がったのである。
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数日後。
今度は松浦のところへ坂東から知らせが来た。
那須との借款についての返書だったが、その末尾に東国の情勢が記されていた。
松浦はそこだけ読み上げた。
「北条氏政殿、健在」
少弐は頷いた。
「じゃあ壊滅はしてない」
「少なくとも御本人は」
北条軍がどれほど損害を受けたのか。
どこまで後退したのか。
徳川がどこまで追ったのか。
まだ分からない。
しかし一つだけ、はっきりしてきた。
北条と徳川だけの戦ではなくなった。
織田が本格的に参加した。
だから東国でも対応が始まっていた。
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北条は東国三国同盟の一角である。
小田。
北条。
上杉。
かつて上野で戦った三者が和睦し、甲斐・信濃方面への戦を経て作った同盟だった。
それはもう、一時的な停戦ではない。
二十年近く続いた東国の秩序だった。
その一角が大規模な戦争をした。
当然、小田にも上杉にも知らせは届く。
だが、ここで少弐が待っていたような、
「小田出陣」
という知らせは来なかった。
上杉についても同じだった。
少弐は少し意外に思った。
「氏治公、出ないのかな」
四十郎が言った。
「北条殿から援軍の要請が来ていないのでは?」
「それもあるか」
同盟だからといって、すべての境目争いに三国すべてが兵を出すわけではない。
北条には北条の領国がある。
徳川との争いも、もとは駿河の領地をめぐる北条自身の戦だった。
織田が加わったからといって、直ちに東国三国同盟全体の戦争になるとは限らない。
ただし――
その境目がどこにあるのか。
それを皆が考え始めていた。
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さらに数日すると、京から詳しい話が届き始めた。
織田勢は大量の鉄砲を持ち込んだ。
徳川勢は地形をよく知っていた。
北条も馬を使って何度も攻めた。
柵を築いた。
川を挟んだ。
陣を何度も動かした。
話は来るたびに違った。
少弐は途中から、どれが正しいか決めるのをやめた。
「全部書いておいて」
渡辺が困った顔をした。
「互いに矛盾しておりますが」
「だから」
少弐は答えた。
「後で比べればいい」
その言葉に四十郎が笑った。
「少弐殿らしいですな」
戦場へ行っていない者が、戦場を見たように書いてはいけない。
分からないものは、分からないまま残す。
少弐はそうした。
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ところが月末。
松浦がまた帳面を抱えてやって来た。
今度は顔つきが違った。
「少弐殿」
「なに?」
「坂東で、銭の動きが変わりました」
少弐はすぐに意味を理解できなかった。
「戦費?」
「それもございます。ただ……北の方です」
「北?」
松浦は地図の越後を指した。
上杉だった。
「那須方面からの話では、長篠の戦そのものより、上杉家中の動きを気にする者が増えております」
「なんで?」
「まだ分かりませぬ」
松浦は正直に答えた。
だが、借金というものは妙なところで情勢を映す。
軍勢を集めれば米が要る。
米を買えば銭が動く。
城を直せば材木が動く。
人が逃げれば土地の値が下がる。
そして何かを恐れている者は、現金を手元へ置こうとする。
上杉領とその周辺で、そういう動きが出始めているという。
少弐は地図を見た。
「長篠で北条が戦ったのに……」
なぜ、越後が動く。
答えはまだなかった。
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夕方。
少弐は三月から続けている記録帳を開いた。
三月。
徳川、織田へ援軍を請う。
四月。
織田勢、東海道へ動く。北条、いまだ退かず。
そして五月。
少弐はしばらく筆を止めてから書いた。
長篠にて、北条・徳川織田両勢、大戦。勝敗諸説あり。北条氏政健在。
そこで一度筆を置いた。
しかし松浦の報告を思い出し、下へ小さく書き足した。
越後、動静不審。
その時の少弐には、それ以上のことは分からなかった。
長篠で何が決まったのかさえ、まだ正確には知らない。
ただ、遠く離れた兵庫津から見ても、一つだけ奇妙なことが起き始めていた。
東海道で起きた大戦の余波が、
東ではなく、
北へ向かっていた。
そして六月。
少弐たちが清盛館で断片的な知らせを集めているころ――
物語の中心そのものが、兵庫津から坂東へ移ろうとしていた。




