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天正三年四月――東海道へ向かう旗

天正三年四月――東海道へ向かう旗


四月。


兵庫津では、春の仕事が本格的に始まっていた。


冬のあいだ応急的に塞いでいただけの水路を掘り直し、崩れた橋には新しい杭を打つ。焼けた城館から運び出された柱や梁も、蔵や番所、農家の建て直しへ次々と回されていた。


少弐のところへ届く書付も、戦のころとはすっかり変わった。


米がない。


牛が足りない。


鍬をもっと寄越してほしい。


この村では種籾が足りない。


橋を直すため船大工を三人貸してほしい。


少弐はそうした書付を四十郎へ渡し、


「任せた」


と言った。


四十郎は嫌な顔一つしなかった。


むしろ最近では少弐が余計な口を挟むと、


「それはこちらで処理いたします」


と言うようになっている。


侍従長にしたのだから、それでよかった。


そんな四月の半ば、また渡辺が東から届いた書状を持ってきた。


「動きました」


少弐は筆を止めた。


「徳川?」


「織田です」


少弐は四十郎を見た。


四十郎も仕事の手を止めた。


渡辺が地図を広げる。


尾張、美濃から兵が動き始めているという。


まだ全軍ではない。


先触れが走り、街道沿いでは兵糧の手配が始まり、馬が集められている。


そして徳川方も、それを受け入れる準備を進めていた。


「本当に来るのか」


「来るようです」


三月の段階では、京で広がっている噂にすぎない部分もあった。


四月になると、それが兵の動きとして見えるようになった。


徳川家康は、本当に織田信長を東海道へ引っ張り込んだのである。



---


松浦からは、さらに別の報告が来た。


佐野との借款のやり取りに添えられていた書状だった。


「佐野殿から改めてございます」


少弐が読む。


内容は明快だった。


佐野は動かない。


九州方面の安定を優先する。


織田・徳川と北条の争いについて、佐野は兵を出さない。


ただし――


小田については何も約束していない。


少弐はそこを二度読んだ。


「やっぱり書いてある」


「何がでございます?」


「『小田とは別』って」


松浦は平然としていた。


「別の家でございますから」


「そうなんだけど」


佐野は嘘をついていない。


小田と長年協力している。


那須とも結びついている。


坂東の大きな秩序の中にいる。


それでも佐野と小田は別の家だ。


だから、


佐野は参戦しない。


そこまでは約束できる。


だが、


小田氏治が何をするかは知らない。


そういう理屈だった。


「信長公、これで納得したのかな」


「少なくとも佐野勢が出ないことには意味がございましょう」


四十郎が言った。


確かにそうだった。


九州への対応で動いている佐野まで東海道へ出れば、戦はさらに広がる。


一つでも参戦者を減らせるなら、織田にとって悪い話ではない。



---


だが北条にも、慌てた様子はなかった。


氏康はすでにいない。


氏政の時代になって久しい。


父の死による混乱は、とっくに過ぎていた。


そして北条の背後には、二十年近く積み上げてきたものがある。


東国三国同盟。


小田。


北条。


上杉。


かつて上野で戦った三者が和睦し、さらに甲斐・信濃方面への戦を通じて作った東国の秩序だった。


だから氏政は、徳川正面へ兵を向けながら、


「上杉が背後から来るかもしれない」


などと心配しているわけではない。


むしろ織田が加わったことで問題になったのは、


北条が東国三国同盟へ何を求めるのか


だった。


援軍を求めるのか。


兵糧だけ求めるのか。


あるいは、


「これは北条と徳川の境目争いである」


として、自力で戦うのか。


その答えまでは、まだ兵庫津には届いていなかった。



---


「氏治公、どうするんでしょうね」


四十郎が言った。


少弐は地図を眺めた。


「分からない」


「援軍を?」


「分からないから、分からないでいい」


少弐はそう言った。


兵庫津から東国を見て、勝手に氏治の考えを決める必要はなかった。


ただ、分かっていることだけ残す。


徳川が北条と戦っている。


徳川が織田を呼んだ。


織田が本当に動き始めた。


佐野は不干渉を約束した。


小田は何も約束していない。


上杉も動いていない。


それで十分だった。



---


四月も終わりに近づくころ。


今度は西国艦隊の船が、堺から妙な噂を運んできた。


「羽柴殿が東へ戻るとか」


少弐は顔を上げた。


「秀吉殿が?」


「すぐ軍勢を率いて、という話ではございません。ただ織田家中で東国への備えを厚くするよう話が回っているとか」


少弐は腕を組んだ。


秀吉は西国を攻めるための将だった。


毛利と向き合い、播磨を攻め、自分たちとも何度も戦った。


その秀吉まで東へ意識を向け始める。


西の戦線が薄くなる。


それは瀬戸内にとって悪い話ではない。


だが少弐は喜べなかった。


「これ、だんだん大きくなってない?」


「大きくなっておりますな」


四十郎が即答した。


少弐はため息をついた。



---


その日の夕方。


清盛館の外では、雲丸が走り回っていた。


まだ上手く発音できない言葉を叫びながら、四十郎を追いかけている。


少弐は縁側からそれを眺めた。


海には西海会社の船が出入りしている。


向こうでは新しい橋が架けられていた。


さらに遠くでは、破却された城から運び出した材木を積んだ荷車が動いている。


兵庫津は戦を終わらせようとしている。


九州でも、島津と大友は戦いながら、それでも大乱そのものは静まりつつある。


東国には長く続いた三国同盟がある。


それなのに東海道では、


一つの境目争いへ、次々と大きな家が引き寄せられていた。


少弐は渡辺に命じて作らせた記録帳を開いた。


三月の末尾には、


「徳川、織田へ援軍を請う」


とある。


その下、四月。


少弐は自分で書いた。


「織田勢、東海道へ動く。」


少し考えて、もう一行加えた。


「北条、いまだ退かず。」


筆を置いた。


このとき兵庫津では、まだ誰も知らなかった。


翌月。


この二つの軍勢がぶつかる場所の名が、後世まで残ることになる。


長篠。

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