表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1002/1011

天正三年三月――東から来た二つの話

天正三年三月――東から来た二つの話


天正三年――一五七五年三月。


兵庫津にも、ようやく春らしい風が吹くようになっていた。


だが、戦の傷は季節が一つ変わった程度では消えてくれない。


播磨では、焼け落ちた城や館の破却が続いていた。


再び使う見込みのない城は残さない。石や材木、まだ使える瓦や金具まで運び出し、橋や蔵、番所、家々の再建へ回す。


田畑も同じだった。


戦の間に放置された畦を直し、水路を掘り返す。帰る村そのものを失った者には、新しく耕す場所を割り当てる。


兵庫津の評定では、戦について話す時間より、


「この橋を先に直すべきだ」


「いや、その前に用水だ」


「材木が足りない」


「船で運べ」


そんな話の方が多くなっていた。


少弐は、それでよいと思っていた。


戦について話さなくてよい日が増えることこそ、戦が終わった証拠だった。


そんな三月のある日。


京へ出ていた渡辺が清盛館へ帰ってきた。


明や朝鮮から集め、翻訳させた書物の写本を公家や寺社へ納めるための上京だった。


「お帰り」


少弐は書類から顔を上げた。


「京はどうだった?」


「本はよく売れました」


「それはよかった」


「ただ、それより妙な話が」


少弐の手が止まった。


最近、この言葉から始まる報告にはろくなものがない。


渡辺は東海道の方角を指した。


「徳川殿が駿河で動いております」


「北条殿と?」


「はい」


それ自体は新しい話ではなかった。


氏康亡きあと、北条は氏政の代になっている。


すでに代替わりの混乱も収まり、氏政の支配は安定していた。


一方の徳川は、かつて三方ヶ原周辺で北条とぶつかって以来、駿河方面でじわじわと押し返していた。


旧領を取り戻しながら東へ進み、ついには掛川付近まで戦線を押し戻した。


だが、そこで止まった。


北条も退かない。


徳川も退かない。


「それで、家康殿が織田殿に援軍を求めたようです」


少弐は眉を上げた。


「……信長公を呼んだの?」


「呼びました」


少弐は地図を広げた。


もともとは北条と徳川の戦だった。


そこへ織田が入る。


話が一段、大きくなる。


「京では?」


「東へ兵が動くという話で持ち切りです。どこまで本気かは分かりませんが」


そこへ松浦が入ってきた。


「その話でしたら、こちらにも少々ございます」


「そっちはどこから?」


「金でございます」


少弐は笑った。


「お前らしいな」


松浦は那須や佐野との借款に関する帳面を置いた。


金を貸せば、返済の相談が来る。


返済の相談が来れば、今年どこへどれだけ兵を出した、米がいくら必要になった、どこから銭を調達した――そんな話まで自然についてくる。


商人の情報網とは、そういうものだった。


「佐野殿は織田方と話をつけたようです」


「何を?」


「今回の東海道の戦には関与しない、と」


少弐は少し意外そうな顔をした。


「氏治公も?」


「いいえ」


松浦は首を振った。


「佐野殿だけです」


そして、いかにも佐野らしい言葉が続いた。


小田と佐野は別である。


「……よく言ったな」


「事実ではございます」


「そうなんだけどさ」


佐野は九州の大乱への対応を抱えている。


そのため織田・徳川と北条の争いには介入しない。その代わり、織田側も佐野の九州での行動には干渉しない。


互いに戦場を分けたのだった。


九州についても松浦は続けた。


「島津と大友の戦そのものは続いております。ただ、以前のように九州中がひっくり返る情勢ではなくなったとか」


「戦ってるのに?」


「戦っております」


「でも安定してる?」


「安定しております」


少弐はしばらく考えてから、


「九州って難しいな」


とだけ言った。


渡辺が笑った。


だが東国の話は笑って済ませられない。


北条は孤立しているわけではなかった。


ずっと昔――上杉が鎌倉へ参拝しようとしたころ。


上野を舞台として北条と上杉が激しく争った。


そこへ小田が入り、戦の果てに和睦した。


やがて三者は同盟へ進み、その力は甲斐・信濃方面の三国同盟との戦へ向けられた。


それから二十年ほど。


いまや、


小田・北条・上杉の東国三国同盟


は東国の秩序そのものになっている。


氏政が徳川と戦っているからといって、上杉がその背中を刺すような関係ではない。


だから徳川が戦っている相手は北条一氏であっても、その背後には長年かけて作られた東国の秩序がある。


そこへ家康は信長を連れてきた。


少弐は地図の上で、駿河と三河を指でなぞった。


「佐野殿が出ないのは分かった」


「はい」


「氏治公は?」


「何も約束しておりません」


「上杉は?」


「同じく」


「北条殿は当然戦ってる」


「はい」


少弐は黙った。


それから西へ指を滑らせた。


織田の領域へ。


「……これ、信長公、本当に行くのかな」


渡辺が答えた。


「少なくとも京では、行くものとして話が進んでおります」


少弐は地図から手を離した。


去年まで播磨では、誰がどの城を守るか、誰がどの道を塞ぐか、そればかり考えていた。


ようやく戦が終わった。


城を壊し、その材木で橋を直している。


九州でも大乱は収まりつつある。


瀬戸内でも評定が始まった。


東国にも二十年近くかけて作られた秩序がある。


天下のあちこちで、人々は戦を終わらせようとしている。


なのに駿河では、


北条と徳川だけだった戦へ、織田が入ろうとしていた。


「渡辺」


「はい」


「東の話、これから全部残しておいて」


「戦況を?」


「それも。でも、それだけじゃない」


誰が兵を出したのか。


誰が出さなかったのか。


誰と誰が約束したのか。


どこから兵糧が動いたのか。


誰が金を貸したのか。


誰が道を開け、誰が閉じたのか。


「戦って、戦場だけ見ても分からないから」


松浦が自分の帳面を見た。


「では私の帳面も?」


「残して」


「借金の記録でございますが」


「だから残すんだよ」


少弐は笑った。


この三月。


兵庫津ではまだ、その戦を特別な名前では呼んでいない。


ただの、


北条と徳川の戦。


そこへ徳川家康が織田信長を呼んだ。


それだけの話だった。


けれども、清盛館の地図の上では――


駿河から三河へ続く狭い一帯に、少しずつ、天下の力が集まり始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ