第39話 自己犠牲
アリスの指が、ログを先へ進めた。
Fear解除。
美咲の発声記録。
カウント再開。
ナナの位置が前線へ戻り、れんの移動軌跡が広場の外周を維持する。
美咲の状態は、完全ではなかった。
心拍はまだ高い。
呼吸も乱れている。
でも、解除薬の使用記録は、そこから再び動き始めていた。
「戻ってからの判断は悪くないわ」
アリスが言った。
「カウントを再開し、解除と回復を戻している。フィアーの影響を受けた後としては、立て直しは早い」
「……はい」
美咲は小さく頷く。
褒められたとは思わなかった。
けれども、できていたことを消さないと言われた後だからか、その言葉は少しだけ胸に残った。
アリスの指が、さらに先へ進む。
敵性反応の増加。
状態異常周期の乱れ。
精神安定剤の残数低下。
ジャミングバグ本体への攻撃記録。
ナナの射撃記録が、短い間隔で並んでいく。
れんの位置は前線に残り続けていた。
「ここからは、削り切る判断に移っているわね」
「はい」
れんが答えた。
「長引かせたら、こっちが先に崩れると思いました」
「判断としては妥当よ」
アリスは短く頷く。
「付与の周期が不安定になり、小型も再び迫っている。持久戦に切り替える余裕はない」
ログ上の数字が、淡い光となって並んでいる。
精神安定剤の残数。
回復弾の残数。
ナナの射撃記録。
れんの被弾記録。
美咲の解除薬使用記録。
それらが静かに、あの時の追い詰められ方を示していた。
美咲は膝の上の手を握る。
そこから先に、何があったのかを知っている。
アリスの指が止まった。
ログ上に、新たな状態異常表示が浮かび上がる。
【Fear:00:39】
対象は美咲。
同時刻に、ナナにも別の状態異常表示が重なっていた。
美咲の呼吸が、わずかに止まる。
「ここね」
アリスの声は静かだった。
さっきのような鋭さはない。
けれど、その静けさの方が、かえって逃げ道を塞いでいるように感じた。
「貴女はこの時、自分のフィアー解除より、ナナの解除を優先している」
「……はい」
「理由は?」
美咲は、すぐには答えられなかった。
ログには、理由までは残らない。
残っているのは、行動だけだ。
精神安定剤未使用。
ナナへの解除薬使用。
その直後、ナナの射撃記録が再開している。
「ナナさんが動けないと、削り切れないと思いました」
美咲は、ゆっくりと言葉にした。
「私が動けなくても、ナナさんが撃てれば、まだ間に合うって」
ナナの顔が、わずかに強張った。
れんも口を閉ざしている。
刹那はソファーに沈んだまま、何も言わなかった。
アリスはログを見つめていた。
「その判断自体は、間違いとは言い切れないわ」
美咲は思わず顔を上げた。
「彼女が動けなければ、最後の攻撃には届かなかった可能性が高い。結果として、貴女の判断は戦線を繋いでいる」
アリスはそこで一度、言葉を切った。
「けれども、それを成功例として扱ってはいけない」
美咲の指先が、膝の上で動きを止めた。
「これは、次も同じようにすればいい、という話ではないわ」
「……はい」
「貴女は、ナナを判断材料に入れた。れんも、敵も、残り時間も、精神安定剤の残数も見ていた」
アリスの視線が、美咲へ向く。
「でも、そこに自分が入っていない。これは、今回一番の問題点ね」
その言葉で、胸の奥が小さく沈んだ。
「自分がいつまで動けるか。自分が止まった時に、誰が何を背負うか。そこを計算に入れないまま、貴女は自分を優先順位の外に置いた」
「……そんな、つもりは」
「つもりの話はしていないわ」
アリスの声は荒くない。
けれど、その一言はまっすぐだった。
「ログ上の事実として、貴女は自身のフィアー解除を後回しにしている」
美咲は言葉を失った。
ナナを助けたかった。
れんを助けたかった。
戦線を繋ぎたかった。
それは嘘ではない。
けれども、そのために自分を数に入れていなかったと言われると、返す言葉が見つからなかった。
「貴女の判断は、今回だけは間に合った」
アリスは静かに言った。
「だからこそ、二度目を許してはいけない」
ロビーに、静かな重さが落ちた。
ナナは何かを言いかけたように唇を動かしたが、結局、何も言わなかった。
れんも、ログを見つめたまま動かない。
刹那だけが、わずかに目を伏せていた。
アリスは端末から指を離す。
ログの光が、少しずつ弱まっていった。
「今回の結果は否定しないわ」
アリスが言った。
「貴女は戻った。ナナも戻した。れんも前線を維持した。最後の攻撃にも届いた」
そこで、アリスの声が少しだけ低くなる。
「でも、美咲。これは貴女の手柄ではなく、貴女が危険な賭けに勝ってしまった記録よ」
美咲は何も言えなかった。
賭け。
その言葉が、胸の奥で重く残る。
勝ったのに。
生き残ったのに。
討伐できたのに。
それでも、アリスは成功とは言わなかった。
「今日の反省会は、ここまでよ」
アリスが端末に触れる。
空中に展開されていたログが、静かに消えた。
終わった。
そう思った、その時だった。
「自己犠牲」
不意に落とされた言葉に、美咲は顔を上げる。
「え?」
アリスは、まっすぐに美咲を見ていた。
「貴女の悪いところよ。貴女は今回、自分を切り捨てようとした」
「……」
「以前、何を優先するかを考えなさいとは言ったわ。でも、貴女自身を選択肢から外せとは言っていない。もう一度よく考えなさい」
その言葉だけを残して、アリスは視線を外した。
美咲は、返事をすることができなかった。
自己犠牲。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
自分では、そういうつもりではなかった。
誰かのために動きたかった。
支援職として、できることをしたかった。
けれど、アリスはそれを、悪いところだと言った。
反省会は終わったはずなのに。
美咲の中では、まだ何も終わっていなかった。
「終わった終わった」
沈黙を破ったのは、刹那だった。
ソファーから立ち上がり、大きく肩を回す。
「お前ら、飯行くか」
刹那の呼びかけに、誰も答えなかった。
美咲は膝の上の手を見つめたまま動かない。
れんは消えたログのあたりを見ている。
ナナも、腕を組んだまま口を閉ざしていた。
刹那の眉が、ほんの少しだけ動く。
「あー……」
そう声を漏らした後に、頭の後ろを掻いた。
「……私も、行きます」
最初に口を開いたのは、ナナだった。
「おっ。いいね」
刹那は口角を上げると、れんを見た。
「れんも来るだろ」
「え、あ、はい。行きます」
れんは慌てて端末を閉じた。
刹那は次に、美咲を見た。
「美咲も」
「……私は」
美咲はまだ、立ち上がれなかった。
頭の中が散らかったままだった。
自己犠牲。
危険な賭け。
自分を優先順位に入れていない。
言葉だけが、ばらばらに残っている。
「美咲」
アリスの声がした。
美咲は顔を上げる。
「貴女は行きなさい」
「でも、アリスさんは」
「私はもう少しログを見るわ」
「なら、私も」
「必要ないわ」
即座に返された言葉に、美咲は口を閉じた。
アリスの声は、さっきより落ち着いていた。
「今の貴女に必要なのは、ログを見ることではないわ」
美咲は、膝の上の手を見つめる。
刹那が近づいてきて、美咲の肩を軽く叩いた。
「ほら、行くぞ」
「……はい」
美咲はゆっくりと立ち上がり、アリスに頭を下げた。
「ありがとうございました」
れんも立ち上がり、刹那に続く。
ナナは一度、アリスを見た。
そして、口を開いた。
「先行ってて」
美咲が振り返る。
「え?」
「すぐ行く」
その声は、少し硬かった。
美咲はナナとアリスを交互に見た。
そして、刹那に促されてロビーの扉へ向かう。
扉が開く。
刹那、れん、美咲がロビーを出ていく。
扉が閉じる直前、刹那がちらりとナナを見る。
何かを言うわけではない。
ただ、任せたとでも言うように、軽く視線だけを置いていった。
扉が閉じた。
ロビーには、アリスとナナだけが残る。
ナナは腕を組んだまま、アリスを見た。
言いたいことはあった。
さっきの反省会のこと。
美咲への言い方。
間違ったことを言ってるわけではない。
それでも、いくつもの言葉が喉元まで来ていた。
ナナが口を開こうとした、その時だった。
「彼女を頼んだわ」
先に言ったのは、アリスだった。
ナナの眉が困惑したように、大きく上がった。
「……は?」
「美咲を頼むと言ったの」
「なんで私なのよ」
声には、思ったより強い棘が混じった。
「あんた、あれだけ見えてるんでしょ。ログも読める。判断もできる。美咲もあんたを尊敬してる」
ナナはアリスを睨んだ。
「それなのに、なんで私なのよ」
アリスは端末に視線を落としたまま、少しだけ沈黙した。
それから、静かに答える。
「貴女のように、親身に、対等に寄り添うことができないからよ」
ナナは言葉を失った。
「刹那も、私も」
アリスは顔を上げない。
その横顔は、何を考えているのか読めなくて、にくたらしいくらい涼しげだった。
けれど、どこか寂しそうにも見えた。
「私にできるのは、見て、切り分けて、必要なことを言うことよ。美咲がそれで進める時もある。でも、それだけでは足りない時がある」
「……」
「貴女は、隣で怒れるでしょう」
アリスの言葉に、ナナの胸の奥がわずかに詰まる。
「私は、それが得意ではないわ」
ロビーは静かだった。
さっきまで空中に並んでいたログはもうない。
紅茶の香りだけが、薄く残っている。
ナナは、しばらくアリスを見ていた。
腹は立つ。
やっぱり、少しにくたらしい。
でも、今の言葉が嘘ではないことくらいは分かった。
「頼むなら」
ナナは、ゆっくりと言った。
「それ相応の対価をよこしなさい」
アリスが、わずかに目を細める。
「金銭?」
そう言って、端末へ手を伸ばしかける。
ナナは思わず顔をしかめた。
「違うわよ。見くびらないで」
アリスの手が止まる。
「なら、何?」
ナナは腕を解いた。
そして、アリスへ手を差し伸べる。
「行くわよ」
アリスが、その手を見る。
「どこへ?」
「ご飯に決まってんでしょ。聞いてなかったの?」
「私は」
「ログは後」
ナナはアリスの言葉を遮った。
「反省会のあんたじゃなくて、素のあんたを教えて。それが対価」
アリスは、すぐには答えなかった。
差し出された手を見ている。
それから、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……変わった対価ね」
「高いわよ」
ナナが言う。
「ちゃんと払ってもらうから」
アリスは小さく息を吐いた。
諦めたようにも、少しだけ困ったようにも見える吐息だった。
やがて、端末をテーブルに置くと、静かに立ち上がった。
「対価分だけよ」
ナナは差し出した手の行き場をなくしたように、指を握ったり開いたりした。
そして、口の端を吊り上げた。
「なら、行くわよ。アリス」
反省会の名残が残るロビーを背に、二人は扉へ向かった。
扉が開く。
外から、刹那の声が聞こえた。
「遅いぞー」
「す、すみません!」
ナナが慌ててロビーから出ていった。
隣でアリスが小さく瞬きをし、ナナの後を追った。
その横顔は、さっきまでの反省会のものとは少しだけ違って見えた。
アリスがロビーを出ると、扉が静かに閉じた。
その直後、照明がふっと落ちる。
閉じた扉の向こうから、五人の声が漏れてきた。
「なんだよ。結局来んのかよ」
「対価分だけ」
「てか美咲。途中泣いてたでしょ」
「なっ……! 泣いてません!」
「気にする必要ないですよ。俺でも泣いてたと思います」
「れんさんまで!」
先ほどまで張り詰めていたとは思えないほど、穏やかな声色。
その声は、聞こえなくなるまで、ずっと続いていた。




