第38話 四十四秒
「ここからは、別の話よ」
アリスの声が、静かに落ちた。
「まず、フィアーを受けたこと自体は問題にしないわ」
アリスが言った。
美咲は、思わず顔を上げる。
「……問題に、しないんですか」
「ええ。初見の上位種。どの状態異常が来るかはランダム。回避手段も確立していない。受けたことを反省の中心に置いても、次に使えないもの」
アリスの指が、端末の上を滑る。
ログが切り替わった。
美咲のバイタル変化。
心拍急上昇。
呼吸の乱れ。
視線固定。
行動停止。
ポーチへのアクセス記録なし。
精神安定剤使用記録なし。
「問題はここよ」
アリスの声が、少しだけ深くなった。
「貴女は精神安定剤を持っていた。使い方も知っていた。必要な場面だと分かる知識もあったわね」
「ありました」
「けれども、使えていない」
美咲は膝の上で、指先を握った。
「ナナさんと、れんさんを先に見なきゃって……思いました」
「その時、貴女自身は動けていたの?」
美咲の喉が、小さく詰まる。
ログ上では、自分の行動停止がはっきりと表示されていた。
視線の固定。
解除薬の使用なし。
それでも、あの時の自分は、必死に二人を見ようとしていた。
見なければいけないと思っていた。
「……動けて、いませんでした」
「なら、その判断は成立しないわ」
ナナの眉が、わずかに動いた。
ただ、ナナは口を開かずアリスを見続けていた。
「味方を見ようとしたことは否定しない。けれど、自分が動けない状態で味方を支援することはできない」
美咲は、何も返す言葉がなかった。
「支援職が崩れていることを、前線が推測しなければならない。その時点で危険よ」
アリスの声は荒くない。
表情も変わらない。
けれども、今日はいつもより厳しい気がした。
いつもの反省会でも、アリスの指摘は甘くない。
それでも今日は、少し違う。
一つ一つの言葉が、いつもより深く刺さる。
逃がさない、というより。
逃がしてはいけないと思っているような声だった。
「貴女が自分の異常を渡さなければ、味方は貴女を判断材料に入れられない」
「……はい」
「自分を後回しにすることは、献身ではないわ。情報不足を作る行為よ」
美咲の指先に力が入った。
その言葉は、胸の奥に深く沈んだ。
献身ではない。
情報不足を作る行為。
自分では、誰かを助けようとしていたつもりだった。
それでも、アリスの言葉は、そのつもりだけを許してはくれない。
隣で、ナナの表情が少しずつ険しくなっていく。
ここに来た時とは、明らかに違う。
フィアーの話に入ってから、ナナの眉は少しずつ寄っていった。
美咲は、それも分かっていた。
分かっていたからこそ、余計に胸が苦しくなる。
「自分が動けないなら、まず自分を戻しなさい」
美咲は、すぐには頷けなかった。
間違っているとは思わない。
その言葉をそのまま飲み込むには、胸の奥がまだ追いついていなかった。
「支援職が一人で崩れれば、全員が崩れる。貴女はもう、それを知っているはずよ」
「あのさ!」
ナナの声が、そこで割り込もうとした。
「ちょっと、それは」
アリスの視線が、ナナへ向く。
声はなかった。
けれど美咲には、その碧い瞳が、口を挟むならそれ相応のものを出しなさいと告げているように見えた。
ナナは奥歯を噛むようにして、言葉を飲み込む。
それでも、眉は険しいままだった。
ロビーに、重い静けさが落ちる。
れんも口を開かない。
ナナも、それ以上は何も言わない。
喉の奥が詰まり、目元に熱が差した。
美咲はそれを飲み込むように視線を落とし、膝の上で指先を握っていた。
アリスが、さらに口を開こうとする。
「……アリス」
その声が、静寂を切った。
刹那だった。
「一回、息させろ。んで、お前は紅茶飲め」
アリスの視線が、刹那へ向く。
「私は冷静よ」
「知ってる。だから飲め」
刹那の声は、いつもの軽口より低かった。
茶化しているわけではない。
ただ、これ以上は一度止めるべきだと、そう判断したような声だった。
アリスはしばらく刹那を見ていた。
やがて、俯く美咲を見た後に、静かに息を吐いた。
「……そうね」
アリスは端末から指を離し、テーブルの上のティーカップへ手を伸ばした。
カップがソーサーに触れる音が、小さく鳴る。
その音で、美咲はようやく、自分が息を詰めていたことに気づいた。
ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。
外に出たわけではない。
それでも、張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
刹那は、ナナとれんへ視線を向ける。
「悪かったな」
短い一言だった。
ナナは一瞬、何を謝られたのか分からないように瞬きをした。
「……何が、ですか」
「巻き込んだ」
刹那はそれだけ言うと、ソファーの背に身体を預けた。
大きく息を吐くわけでもない。
笑うわけでもない。
ただ、面倒な役目を一つ終えたような顔をしている。
その横顔は、いつもの軽さより少しだけ年上に見えた。
ナナは何か言いたそうにし、口を結んだ。
れんも、小さく頭を下げるだけだった。
少しの間、誰も口を開かなかった。
アリスが紅茶を一口飲み、カップを戻す。
その動きは、いつも通り静かだった。
「続けるわ」
アリスが言った。
その声は、さっきより少しだけ落ち着いていた。
「美咲」
「はい」
「貴女は、味方の状態を見ることには慣れてきている。でも、自分の状態を味方に渡すことが遅い」
今度は視線を落とさず、美咲が頷く。
「支援職は、味方を見る役割よ。でも、味方から見られる必要がないわけではない」
アリスの指が、ログを示す。
Fear発生。
美咲の行動停止。
精神安定剤未使用。
ナナの接近。
精神安定剤使用記録。
残り時間、四秒。
「この時、貴女は助ける側ではなく、助けられる側だった」
美咲は、ナナを見た。
ナナは視線を合わせなかった。
それでも、あの時、自分を戻したのが誰だったのかは分かっている。
「……助けられた側」
声にすると、その事実は思っていたより重かった。
「それを忘れないように」
美咲は小さく頷いた。
忘れたかったわけではない。
けれど、認めるのが怖かった。
自分は、支援職なのに。
誰かを助けるために動かなければいけないのに。
あの時、自分は動けなかった。
そして、ナナに助けられた。
ナナが口を開く。
「……別に」
その声は、少しだけ不機嫌そうだった。
「あれは、こっちが勝手にやっただけ」
美咲がナナを見る。
ナナは視線を合わせなかった。
その横顔には、さっきまでの険しさが少しだけ残っている。
アリスはナナを見た。
「その勝手な判断で、美咲は戻った」
「……なら、いいでしょ」
「ええ。だから、そこは評価するわ」
ナナの目がわずかに見開かれた。
アリスはその反応には触れず、ログへ視線を戻す。
「ただし、美咲が最初から自分の状態を渡せていれば、貴女がそこまで判断を背負う必要はなかった」
ナナは黙った。
美咲も、何も言えなかった。
「状態異常を受けた時は、まず三つだけ言いなさい」
アリスが指を一本立てる。
「種類」
二本目。
「解除可否」
三本目。
「支援継続の可否」
美咲は、アリスの指を見つめる。
「種類、解除可否、支援継続の可否……」
「そう。長く説明する必要はないわ。完璧な報告も求めない」
「完璧じゃなくても、いいんですか」
「ええ」
アリスは頷く。
「異常。無理。支援不可。それだけでもいい」
美咲は息を飲んだ。
ちゃんと言えなければいけないと思っていた。
状況を正確に伝えなければいけないと思っていた。
でも、アリスはそれを求めていない。
最初に必要なのは、正しい文章ではない。
異常を渡すこと。
「フィアーなら?」
アリスが問う。
美咲は少しだけ口を開き、ゆっくりと言葉にした。
「フィアー。自己解除不可。支援不可」
「それでいいわ」
その言葉に、美咲は小さく頷いた。
れんが静かに口を開く。
「前線側も、それが聞ければ動きやすいです」
アリスの視線がれんへ向く。
れんは少しだけ背筋を伸ばした。
「支援が止まると分かれば、こっちは耐える動きに切り替えられます。解除できないと分かれば、誰かが戻る判断もできます」
「そうね」
アリスは短く頷いた。
ナナも、腕を組んだまま小さく息を吐く。
「言える状態ならね」
「だから、言えるうちに言うのよ」
アリスは即座に返した。
「完全に沈んでからでは遅い。違和感が出た時点で、短く渡しなさい」
「……おかしい、だけでも?」
美咲が聞く。
「十分よ」
アリスは言った。
「おかしい。その一言でも、味方は貴女を見る理由を持てる」
その言葉は、不思議と胸に残った。
完璧じゃなくていい。
怖いでも、無理でも、おかしいでもいい。
自分の異常を、誰かに渡す。
美咲は膝の上で、握っていた指を少しだけ緩めた。
アリスはログを先へ進める。
ナナがカウントを引き受ける記録。
れんの位置が、前線を維持したままわずかに下がる。
ナナの声に合わせて、美咲の状態が少しずつ戻っていく。
精神安定剤の使用記録。
Fear解除。
美咲の発声記録。
カウント再開。
「ここで一度、貴女は戻っている」
「……はい」
「この後の立て直しについては、次に見るわ」
アリスの指が、ログの先へ進む。
広場の敵性反応が増え続けている。
ジャミングバグの状態異常周期は、さらに乱れていた。
美咲は、その先に何があるのか分かっていた。
れんへのFear。
精神安定剤の残数。
そして、最後の選択。
アリスの声が、静かに落ちる。
「次は、貴女が戻った後の話よ」




