第37話 上位種
空中には、第二セクター広場の簡易マップが展開されていた。
中央には、敵性反応として記録されていない異常な空白。
センサーには映らない。
けれど、三人の視線方向と停止位置は、確かにその中央へ向いていた。
美咲は膝の上で、そっと指先を握る。
そこにあるのは、ただの記録だ。
位置情報。
視線方向。
行動の停止。
バイタルの変化。
今、自分があの広場にいるわけではない。
それでも、胸の奥が小さく強張っていくのを止められなかった。
「まず確認するわ」
アリスの声が、ロビーに落ちる。
「この時点では、通常種だと考えていたのね」
美咲ではなく、れんが顔を上げた。
「はい。俺が買った攻略ログにも、通常種の情報しか載っていませんでした」
「上位種の可能性は?」
「……存在は知ってましたけど、完全に失念してました」
れんの声は落ち着いていた。
けれど、言葉の終わりだけが少し重く聞こえた。
アリスは短く頷き、ログへ視線を戻す。
「遭遇位置については、想定が甘いわ」
れんの肩が、わずかに動いた。
「第三セクターと記録されていても、第三セクターの奥とは限らない。第二セクターとの接続部を含む可能性はあった」
空中のログが切り替わる。
第三セクターの奥。
純鉄を回収した通路。
セメタリーキャッシュがあった冷凍室。
そして、第二セクターと第三セクターをつなぐ広場。
位置関係が、淡い線で表示されていく。
「ただし、致命的なミスとは言い切れないわ」
れんが少しだけ顔を上げる。
ナナも腕を組んだまま、アリスを見た。
「ログに第三セクターとしか書かれていないなら、奥で出ると断定するのも、ここで出ると断定するのも危うい。問題は、想定の幅が足りなかったことよ」
「想定の幅……」
れんが口元に手を当て、視線を落とした。
「ええ。場所を一つに決め打ちしすぎている」
アリスは端末に指を滑らせた。
今度は、広場から地上へ戻るまでのルートが表示される。
第三セクターの奥は行き止まり。
地上へ戻るには、第二セクターの広場を抜ける必要がある。
あの空白は、その広場の中央に記録されていた。
「撤退ルートは?」
「ありませんでした」
れんが答える。
「戻るには、あの広場を抜けるしかなかったです」
「なら、交戦判断そのものは問題にしないわ」
ナナの眉が、わずかに寄った。
「そこは責めないんだ」
「責めても意味がないもの」
アリスは、淡々と返した。
「選べなかった選択肢を反省材料にしても、次に使えないわ」
その言葉に、ナナは少しだけ黙った。
美咲は、アリスの横顔を見る。
優しいわけではない。
逃がしてくれるわけでもない。
けれど、アリスは責める場所を間違えない。
それが、少しだけ救いのように思えた。
「では、次」
アリスの指が、ログを先へ送る。
ジャミングバグの周囲に、複数の敵性反応が追加されていく。
れんの移動軌跡が、広場の外周へ伸びた。
小型の反応が、その後を追うように向きを変える。
ナナの射撃記録が、横合いから小型の反応を消していく。
美咲の位置は、二人の後方。
少し遅れて、回復弾と解除薬の使用記録が並んでいた。
「初動は悪くないわ」
アリスが言った。
「役割は整理されている。れんが取り巻きを集め、ナナが削る。美咲は解除と回復を優先する。通常種を想定するなら、妥当な配置ね」
「通常種なら、ですか」
美咲が小さく聞き返す。
「ええ」
アリスの指が、次の記録で止まった。
状態異常の発生。
対象はナナ。
続けて、美咲の解除薬使用。
さらに少し後、美咲自身への状態異常付与。
解除薬の使用記録。
その直後に、小型の接近反応と、ナナの射撃記録が重なっていた。
「ここまでは、通常種の対処として成立しているわ」
アリスはそう言ってから、美咲を見た。
「上位種だと判断したのは、どこ?」
その問いに、美咲の喉が小さく鳴った。
ログには、音声の内容までは残っていない。
けれど、美咲の記憶には残っていた。
砂嵐の奥に混じった、誰かの声。
意味のある会話ではない。
少し前に自分たちが口にした言葉を、ただなぞっているような音。
「ノイズの奥に、声が聞こえた時です」
「内容は?」
「私たちが、少し前に言った言葉を……なぞっているように聞こえました」
ナナが小さく眉を動かした。
れんも、空中のログへ視線を向ける。
「会話ではありませんでした。意味を持って話している感じではなくて、ただ、真似しているみたいで」
美咲は一度、膝の上の指を握り直した。
「それで、アリスさんに教えてもらったことを思い出しました。通常種は電子音。上位種は、声の真似事をするって」
アリスは静かに頷く。
「勉強をしたかいがあったわね」
その一言に、美咲は目を上げた。
褒められた、という感じではなかった。
けれど、努力を見てもらえていたという事実に、胸の奥がわずかに軽くなる。
「ただし」
すぐに続いた声で、美咲の背筋が伸びた。
「上位種と判断した後の切り替えは遅い」
「……切り替え」
「通常種の対処を引きずっている。小型を削り、解除を回し、本体を削る。その流れ自体は悪くない。でも、上位種だと分かった時点で、見る場所を変えるべきだった」
ログが進む。
サイレン発生。
赤色警告。
敵性反応の増加。
状態異常周期の変化。
ナナの位置が美咲の近くへ戻り、れんの移動軌跡が広場外周で大きく乱れる。
「この時点で、通常種の前提は崩れているわ」
アリスは、表示された小型の数を指で示した。
「小型の処理速度が足りていない。状態異常の周期も短くなっている。全員が一手ずつ遅れている」
ナナが、小さく舌打ちをした。
「実際、きつかった」
短い言葉だった。
けれど、それだけで十分だった。
美咲はあの広場の音を思い出す。
小型の金属音。
銃声。
ジャミングバグのノイズ。
自分の呼吸。
全部が混ざって、何を優先すればいいのか分からなくなりかけていた。
「でも」
アリスの指が、さらに先へ動いた。
美咲のバイタル確認。
二分十三秒。
次の状態異常。
美咲の発声記録。
それに続いて、ナナとれんの位置が変わっていく。
アリスの指が、そこで止まった。
「ここからは良いわ」
美咲は思わずアリスを見る。
「周期を掴んで、カウントと解除に役割を絞った。これは正しい判断よ」
「……正しい、ですか」
「ええ」
アリスは端末を軽く叩く。
ログ上で、次の状態異常前にナナとれんの位置が変わっていく。
攻撃停止。
距離の確保。
解除まで被弾しない位置への移動。
「全部を見るのをやめた。崩れる場所を一つに絞った。貴女に必要だったのは、それよ」
美咲は息を止める。
第二セクターで言われたことと、同じだった。
全部を同じ重さで持とうとすると、判断が遅れる。
美咲はその時、自分では分からないまま、見るべきものを絞っていた。
アリスの視線がナナへ移る。
「カウントは機能していた?」
「してた」
ナナは即答した。
それから、ログへ視線を向ける。
「少なくとも、あれがなかったらもっと早く崩れてたと思う。撃つか離れるかを迷わなくて済んだ」
アリスは頷き、今度はれんを見る。
「貴方は?」
「俺も同じです。あのカウントがあったから、状態異常の前に小型を引き離せました」
れんは空中のログを見ながら言う。
「解除まで耐える動きに切り替えられたのは、美咲さんの声があったからです」
美咲の膝の上で、指先が少しだけ緩んだ。
あの時の自分の声は、震えていた。
正しいかどうかも分からなかった。
それでも、届いていた。
合わせてくれていた。
今になって、そのことが少しだけ胸の奥に落ちてくる。
「美咲」
アリスの声で、美咲は顔を上げた。
「貴女は、自分ができなかったことをよく覚えているわ」
「……はい」
「でも、できていたことまで消す必要はない」
美咲は言葉を失った。
アリスの声は、やはり優しくはなかった。
けれど、その言葉は、美咲の中にある黒い部分を少しだけ削っていく。
「ここまでは、立て直せている」
美咲が小さく頷いた。
「だから、次はその後よ」
その言葉で、ロビーの空気が変わった。
アリスの指が、さらにログを先へ送る。
広場全体の敵性反応が、一斉に停止した。
小型の移動記録が、同じ時刻で途切れている。
続いて、美咲のバイタルが大きく乱れた。
心拍。
呼吸。
視線の固定。
行動停止。
美咲は、膝の上の手を強く握った。
音声は、残っていない。
映像が再生されているわけでもない。
でも、その時の記憶だけは、記録とは別の場所から這い上がってくる。
赤い画面。
女性の叫び声。
広場に立つ、自分の背中。
ハンドガンを握ったまま、動かない自分。
ログ上に、美咲の状態異常表示が赤く浮かび上がる。
【Fear:00:44】
表示された文字を見た瞬間、ロビーの空気が変わった。
アリスは、そこで初めて少しだけ目を細めた。
「ここからは、別の話よ」




