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第36話 ログにないもの

「座りなさい」


 アリスの声は、いつも通り静かだった。


 けれど、その一言だけで、ロビーの空気は逃げ道をなくした。


 扉の前で固まっていた刹那が、ゆっくりと振り返る。


「……いや、だからさ。予定が」


「座りなさい」


「はい」


 刹那は肩を落とし、何もなかったかのようにソファーへ戻っていった。


 その様子を、ナナとれんが無言で見ている。


 さっきまで気安く笑っていた刹那が、アリスの一言であっさり折れた。


 それが、二人には少し信じられないようだった。


 美咲は困ったように眉を下げる。


 だから、余計なことは言わないでくださいと、ちゃんと言ったのに。


 刹那はソファーに腰を下ろすと、わざとらしく足を組んだ。


 アリスはそれを見届けると、ナナとれんに視線を移す。


「ログで確認できることには限界があるわ。貴方達には補足をしてもらいましょう」


「補足……ですか」


 れんが少し背筋を伸ばす。


「そうよ」


 アリスは空中に展開されたログを、指先で巻き戻した。


「今から聞くのは、ログに残らない情報。発言、空気、判断の理由。分かる範囲で答えてもらうわ」


 ナナの眉が、わずかに寄る。


「答えなかったら?」


「答えられないなら、答えられないで構わないわ」


 アリスは当然のように言った。


「推測を事実として扱われるのは困るもの」


 その返答に、ナナは少しだけ黙った。


 言い返すつもりだったのかもしれない。


 けれど、アリスの言葉は突き放しているようで、筋は通っていた。


 れんも、軽く頷く。


「分かりました。俺に分かる範囲なら答えます」


「私も、分かる範囲なら」


 ナナはそこで一度、刹那の方を見た。


 刹那は楽しそうに口元を緩めている。


 その顔を見て、ナナは小さく息を吐いた。


「……答えます」


「助かるわ」


 アリスの指が、ログを一つ前の場面へ戻した。


 第二セクター。


 防衛地点。


 リクトがれんの斜め前へ踏み込み、ナナの射線を半分塞いだ場面。


 美咲がカッターハウンドを止め、続けてれんへ回復弾を撃ち込んだ場面。


 ログの光が、ロビーの中央に浮かぶ。


「この場面に戻るわ」


 アリスはそう言って、美咲ではなく、れんを見た。


「貴方には、現場がどう見えていたのかしら?」


「俺ですか」


 れんの視線が、空中に浮かぶログへ向いた。


 そこには、防衛戦の最中の位置関係が表示されていた。


 シェルキャリアとノイズリーチを引き受け、カッターハウンドの進路を抑えようとしていたことが分かる。


 回復弾の着弾位置は、れんの肩口に記録されていた。


 れんは少しだけ息を吐いた。


「美咲さんの判断は、合っていたと思います」


 その言葉に、美咲の指先が膝の上で小さく動いた。


 れんは続ける。


「あの時、俺が崩れたら防衛線が割れてました。リクトも被弾してましたけど、まだ動けていたし、銃も構えられていた。先に俺を見る判断で間違ってなかったです」


 アリスは短く頷いた。


 次に、視線がナナへ移る。


「貴女は?」


「同じ」


 ナナは腕を組んだまま答えた。


「リクトは喋れてたし、動けてた。文句言う余裕もあったしね」


「ナナ」


 れんが少しだけ困ったように名前を呼ぶ。


 ナナは一瞬だけ口を尖らせた。


 それから、少し言い直すように続ける。


「……少なくとも、先に見るべきはれんだった。あそこでれんが止まったら、こっちも撃てなくなる」


 美咲はナナを見た。


 ナナは美咲を見ていない。


 けれど、その声は前より少しだけ柔らかかった。


「なら、この場面の判断については、ログと現場の認識が一致しているわね」


 アリスはそう言って、美咲へ視線を戻した。


「この判断について、貴女が自分を責める必要はないわ」


 美咲は息を止めた。


 責める必要はない。


 その言葉は、優しい響きではなかった。


 慰めでもない。


 ただ、事実として置かれただけだった。


 それなのに、胸の奥に残っていた硬いものが、ほんの少しだけ形を変えた気がした。


「……分かりました」


 美咲は小さく頷いた。


 けれど、アリスの声はそこで終わらなかった。


「ただし、言葉を受けて止まったことは別問題よ」


 美咲の背筋が、また伸びる。


 アリスはログの一点を指で示した。


 リクトの方へ視線が向き、美咲の動きが一拍止まった場面。


「間違えたから止まったのではなく、間違えたかもしれないと思ったから止まった。問題はそこよ」


「……はい」


「支援職は、全員の声を受ける。でも、全員の言葉に従う必要はないわ」


 静かな声だった。


 けれど、美咲の耳には重く残った。


「戦闘中に必要なのは、事実と要請。感情は後でいい」


 ナナがわずかに目を伏せた。


 れんも、顎に手を当てて少し黙った。


「それは、俺たち側にも言えるかもしれませんね」


 れんが言った。


 アリスの視線が、れんへ向く。


「具体的には?」


「回復とか解除を頼む時の言い方です。名前と状態だけでいいと思います。余計なことを足すと、支援職が迷う」


 れんは一度、空中のログへ視線を戻した。


「例えば、れん、出血。ナナ、視界異常。解除お願いします。みたいに」


「悪くないわ」


 アリスは短く返した。


 れんは少しだけ驚いたように瞬きする。


「採用、ですか?」


「少なくとも、方針としては合理的よ」


 ナナが、小さく息を吐いた。


「なら、私は抜けた敵と、自分が動けるかどうかを言えばいいわけね」


 アリスはナナへ視線を移す。


「ええ。貴女は火力職。支援職に渡すべき情報は、敵の位置、自分の状態、射線の変化。その三つで十分よ」


「……十分、ね」


 ナナはどこか複雑そうに呟いた。


 褒められたわけではない。


 けれど、否定もされていない。


 それが少しだけ、居心地悪そうに見えた。


 刹那がソファーで口元を緩める。


「お互い、参加して正解だったな」


「貴女はそこで眺めてるだけなのね」


 刹那を見ないまま、アリスが即座に返す。


「私は反省会苦手だからな」


「知っているわ」


「知ってるなら逃がしてくれてもいいだろ」


「それとこれとは別よ」


 刹那が天井を仰ぐ。


 ナナとれんは、そのやり取りを見ながら、また少しだけ妙な顔をした。


 美咲は、そんな三人を見て小さく苦笑する。


 いつもの反省会ではない。


 けれど、いつもより少しだけ、息がしやすい気もした。


 アリスの指が、ログを少し先へ送った。


 第二セクターの防衛戦を終えた後の記録。


 開いた扉。


 休憩地点。


 そして、少し時間を置いてから、パーティー人数が四人から三人へ変わっている。


 ナナの眉が、わずかに動いた。


「……そこは聞かないの?」


 アリスの視線が、ログからナナへ移る。


「何を?」


「三人になった理由」


 ナナの声は、少しだけ硬かった。


 美咲は膝の上で指先を握る。


 あの時、自分はその場にいなかった。


 少し離れたところでリクトとすれ違って、それ以降戻ってこなかった。


 何があったのか。


 今でも、全部を知っているわけではない。


 アリスは少しだけ目を伏せ、それから静かに答えた。


「理由そのものは、今回の反省には関係ないわ」


 ナナの目が細くなる。


「関係ない?」


「途中離脱は珍しいことではないもの。合わない。納得できない。消耗したくない。理由はいくらでもあるわ」


 アリスは端末に視線を戻す。


「重要なのは、抜けたことではない。抜けた後、残った三人がどう穴を埋めたかよ」


 空中のログが切り替わる。


 回収ルート。


 純鉄の取得。


 セメタリーキャッシュの回収。


 そして、その間の敵性反応。


「第二セクターを突破した時点で、この任務の大半は終わっている。以降は回収が中心。通常なら、消化試合に近いわ」


「通常なら?」


 れんが静かに聞き返した。


 アリスは頷く。


「一定の確率を除いて」


 ロビーの空気が、少しだけ重くなった。


 美咲は、次に何が表示されるのか分かっていた。


 けれど、視線を逸らせなかった。


 アリスの指が、さらに先のログへ触れる。


 表示されたのは、第二セクターの広場。


 その中央に立つ、巨大な影。


 センサーには映らない。


 けれど、確かにそこにいたもの。


「ここからが、本題よ」


 アリスの声が、静かに落ちた。


 ジャミングバグ。


 その名前を聞く前から、美咲の喉は小さく強張っていた。

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