第7話 帰ったら、また
美咲が立ち止まり振り返ると、さっき出てきたばかりの雑貨屋。
木の扉、うさぎの看板。
そして──頭をなでてくれた、あの笑顔。
「……マリアさん、優しい人だったな……」
声に出すと、あの笑顔が頭に浮かんできた。
『もう逃げられないわよ〜♪』
──そんなセリフすら聞こえてきそうな笑顔だった気がして、背中にほんのり、寒気が走った。
「……っ、違う違う……!」
慌てて顔を横に振って、そのイメージを振り払う。
そんな時だった。
視界の端、数字に目が止まる。
【01:02】
「やばっ……! 寝なきゃ……!」
そこではじめて、現実が美咲を思い出してくれた。
着替えも、お風呂も、ご飯も何もしていない。
ただ、夢中になってこの世界を歩き、喋って、撃って、出会って、笑っていた。
名残惜しさが、胸を締めつける。
「……今日は、ここまでにしよう」
そう呟いて、ゆっくりと視線を下げる。
【ログアウトしますか?】
【はい】
一瞬で世界が静かになり、音が消えて、暗闇に包まれる。
風も、匂いも、熱も──
VRデバイスを頭から外し、ゆっくりまぶたを開いた。
そこには、何一つ変わらない自室。
秒針を刻む音だけが、耳に届いてくる。
美咲は小さく息を吐くと、手元のデバイスを机に置き、シャワーへ向かった。
戻ってきた美咲は、濡れた髪をドライヤーで乾かす。
その間も、視線は机の上に向かっていた。
そして、布団に入り電気を消す。
「……頑張ろう」
そう口にした自分の声が、部屋の空気を少しだけあたためた。
ほんのわずか、灰色だった景色が薄く色づいた気がした。
美咲はまぶたを閉じると、眠りにつく。
明日のために。
──
カーテンの隙間から、日差しが漏れている。
美咲は眠気眼のまま、スマホを手に取った。
画面には7:30。
喉が短く鳴り、心臓が跳ね上がった。
ベッドから跳ね起き、ドタバタと音をたてながら身支度を整える。
「ッ! いったぁ……」
リビングを出る拍子に机の角に足をぶつけ、美咲は痛みにうずくまった。
涙を浮かべながら顔を上げると、VRデバイスが目に入る。
思い浮かんだのは、あの森。
リヴェラの街角。
そして、マリアの笑顔──ちょっとだけ怖いやつ。
美咲の口元が自然とほころぶ。
美咲は立ち上がり、玄関に向かった。
「いってきます」
美咲は振り返ると、誰もいない部屋に、そう呟いた。
帰ったら、またやるからね。
心の中で続けながら。
職場に着くと、いつも通りの空気が流れていた。
「おはようございます」
「おはようございます〜」
「おはよー」
同僚や先輩たちは、いつも通り。
美咲が少しだけ元気に挨拶しても、誰も特別な反応はしなかった。
美咲は自席に座ると、パソコンを開いた。
18時。
美咲は鞄を手に取って、椅子から立ち上がる。
「お疲れ様でしたー!」
オフィスを出た美咲の足取りは、いつもより速かった。
退勤時に必ず立ち止まっていた、ロビーの自販機を横目に通り過ぎる。
1分、1秒でも早く帰るために、足が自然と速くなっていた。
駅前のパン屋の看板に目が止まる。
【金曜日限定!】
美咲の歩く速度が少し緩やかになる。
(……ご飯だけ買ってこ)
美咲は自宅に着き、荷物を下ろすと、部屋着に着替え、洗面台に向かった。
仕事の疲れをシャワーの温水で癒す。
湯気を身にまといながらリビングへ戻り、化粧水を手に取った。
美咲がふと床を見ると、昨日散らかした電化製品の空き箱が散らばっていた。
苦笑いを浮かべて、空き箱をまとめる。
会社を出た時とは違い、今はやけに落ち着いてた。
片付けが終わると、VRデバイスを手に取り、装着する。
白い視界がゆっくり色を帯びていき、あの世界の温度が、肌に戻ってくる。
美咲は、軽く拳を握る。
「今日は……もっと、いろいろ挑戦しよう!」
今夜もまた、一行のログが新しく刻まれた。
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