表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
58/80

エピローグ フェレライ

 数日後。


 リヴェラの街は、いつも通り賑やかだった。


 露店の呼び込み。

 素材を抱えたプレイヤーたちの足音。

 どこかのクランが集まって、次の依頼について話している声。


 その中を、美咲はアリスと刹那の少し後ろを歩いていた。


 行き先は、クラン登録用の受付施設。


 アリスはいつもと変わらない顔をしている。

 刹那も、面倒くさそうに首の後ろへ手を回していた。


 けれど、美咲だけは少し緊張していた。


 クラン。


 その言葉は、まだ美咲の中で少し大きい。

 けれど、もう遠いものではなかった。


 受付端末の前で、アリスが手続きを進める。


 クラン名。

 代表者。

 所属メンバー。

 公開設定。

 連絡権限。

 通知先。


 次々に項目が埋まっていく。


 美咲は、その画面を黙って見つめていた。


 そして最後に、確認表示が浮かぶ。


【クラン《ARCADIA》を設立しますか?】


 アリスの指が、ほんの少しだけ止まった。


 刹那が横から覗き込む。


「押さねぇのか?」


「今押すところよ」


 アリスは刹那を一瞥してから、確認ボタンに触れた。


 短い電子音。


 画面に、新しい表示が浮かび上がる。


【クラン《ARCADIA》が設立されました】


 その文字を、美咲はしばらく見つめていた。


 ARCADIA。


 理想郷。


 まだ拠点もない。

 メンバーも少ない。

 何かが大きく変わったわけでもない。


 それでも、その名前は確かに生まれた。


「これで終わりか?」


 刹那が言う。


「最低限の登録はね。細かな権限設定や通知先は、後で調整するわ」


「細かいことは、任せた」


 アリスはわずかに目を細め、小さく息を吐いた。


 アリスの様子に、刹那が唇を尖らせる。


「なんだよ」


「何でもないわ」


 アリスと刹那が、いつものように言い合っている。


 その声を聞きながら、美咲は携帯端末を開いた。


 ログは、記録。


 戦闘の記録。

 観測の証明。

 誰かに売れる情報。

 次に生き残るための材料。


 きっと、多くのプレイヤーにとって、保存ログとはそういうものなのだと思う。


 帰る場所は、理想であるべき。


 その言葉が、繰り返される。


 美咲は端末に指を伸ばす。


【保存ログを作成しますか?】


 表示された確認に、少しだけ迷ってから頷いた。


【保存ログ名を入力してください】


 美咲は、小さく息を吸う。

 そして、ゆっくりと入力した。


【ARCADIA】


 保存完了の文字が浮かぶ。


 それは、売るためのログではなかった。

 攻略に使うためのログでもなかった。


 ただ、忘れたくないと思った日の記録。

 美咲にとって初めての、日記のような保存ログだった。


「何してんだ?」


 刹那が横から覗き込む。


 美咲は慌てて端末を胸元へ寄せた。


「な、なんでもないです」


「怪しいな」


「怪しくないです」


 刹那がにやりと笑う。

 アリスは少しだけ目を細めたが、何も言わなかった。


 三人は受付施設を出る。


 夕方のリヴェラには、少しだけ橙色の光が差していた。


 その光の中を歩いていると、近くを通ったプレイヤーたちの声が聞こえてきた。


「そういや、最近あいつらログインしてなくない?」


「あいつら?」


「ほら、前に初狩りで笑われてた二人」


「ああ。忙しいんじゃね?」


「いや、あれだろ。失敗して笑われたから嫌になったんだろ」


「でも、その後はログインしてたぞ」


「そもそも、その程度で来なくなるタチじゃないだろ、あいつら」


「あー。じゃあ違うか」


 何気ない会話だった。

 ただの噂話。

 ただの雑談。

 誰も深く考えていない声。


 けれど、美咲の足は止まった。


 メイ。

 ベン。


 白い研究所の奥。

 黒いうずくまった何か。

 食べる音。

 記憶の声。

 未完成の顔。


 周りは知らない。


 あの二人が、あの場所で何を見たのか。

 何に食われたのか。

 最後に、どんな声を残したのか。


「気にすんな」


 隣で、刹那が言った。


 美咲は顔を上げる。


「お前のせいじゃない」


 刹那の声は、いつもより少しだけ低かった。


「……はい」


 美咲はそう答えた。


 分かっている。

 そう言われたからといって、胸の奥の重さが消えるわけではない。


 けれど。


 帰れる場所があること。

 誰かが待っていてくれること。


 それがどれだけ救いになるのかを、美咲はもう知っている。


 だから、いつか。

 自分も、誰かが帰ってこられるように手を伸ばしたいと思った。


 誰かの名前が、灰色のままで終わらないように。

 誰かがひとりで、復帰施設から出てこなくていいように。


 そんなふうに──


 アリスは何も言わず、少し前を歩いていた。


 けれど、広場へ差しかかったところで足を止める。


「私はここで失礼するわ」


 刹那が眉を上げた。


「どこ行くんだよ」


「用事があるの」


「何の」


「個人的な用事よ」


 アリスはそれだけ言って、歩き出そうとした。


 美咲は、思わず刹那を見る。

 刹那も、美咲を見た。


 それから、深いため息をつく。


「自分勝手な、クランマスター様だこと」


 しばらくして。


 アリスがリヴェラの正門前まで来たところで、後ろから声がかかった。


「どこ行くんだよ」


 アリスは足を止める。


 振り返ると、そこには刹那がいた。

 その少し後ろに、美咲も立っている。


 アリスは小さく息を吐いた。


「さっきも言ったはずよ。用事があるって」


「どこに」


 刹那の声は短かった。


 アリスは答えない。


 沈黙が落ちる。


「まさか、私たちには言う理由がない、とか言わないよな?」


 アリスの表情は変わらない。

 けれど、美咲には、その沈黙が答えに見えた。


「アリスさん……」


 美咲が声をかけると、アリスはわずかに視線を逸らした。

 それから、観念したように口を開く。


「あの黒い個体は、まだ生きている可能性が高いわ」


 刹那の目が細くなる。


「それで?」


「放置すれば、また被害が出るかもしれない。なら、注意喚起が必要よ」


「そのために、ひとりで行くつもりだったのか」


「必要な情報が足りないの。あの場所に何か残っている可能性がある」


「で、私たちには黙って行くと」


「貴女達を連れていく必要はないと判断しただけよ」


「必要があるかどうかを、ひとりで決めるなってお前が言ったんだろ」


 アリスは黙った。

 刹那は肩をすくめる。


「行くぞ」


 そのまま正門の外へ歩き出す。


「どこへ?」


「決まってんだろ」


 刹那は振り返らずに言った。


「初仕事ってやつだな」


 美咲は息を呑んだ。


 初仕事。

 ARCADIAとしての、最初の仕事。


 討伐ではない。

 報酬目的でもない。


 ただ、もう一度あの場所を確認し、危険を知らせるための仕事。


 美咲は小さく頷き、刹那の後を追った。

 アリスは少しだけ目を伏せる。


 そして、何も言わずに歩き出した。


 研究所へ向かう道は、前と同じだった。

 けれど、赤黒い油痕はもう見当たらない。


 白い建物の中に入っても、隔壁は降りず、動くものの気配もなかった。


 三人は最低限の確認だけを済ませ、あの広い部屋へ向かう。


 そこには、何もいなかった。


 青い液体も、黒い影もない。

 切断された触手も、模倣体の残骸も見当たらない。

 部屋は、空っぽだった。


「……いないな」


 刹那が低く言う。


「ええ」


 アリスは周囲を見渡した。


「移動した、と考えるべきね」


「最悪だな」


 その言葉に、美咲の背筋が冷えた。


 倒していない。

 消えていない。


 ただ、ここからいなくなっただけ。


 その時、アリスの視線が部屋の片隅で止まった。

 彼女は床に落ちていた小さな破片を拾い上げる。


 割れた記録ユニットだった。


「何か残っていたのか?」


「分からないわ。戻って確認する」


 三人は、研究所を後にした。


 夜。


 アリスは、ゲーム内にある自身の個室で端末を開いていた。


 机の上には、先ほど拾った記録ユニットが置かれている。


 破損している。

 欠落も多い。

 読み取れる情報は、断片的だった。


 それでも、いくつかの単語が画面に浮かび上がる。


【Völlerei】


 フェレライ。


 その単語を、アリスは画面の上で静かに読み取った。


【捕食】

【模倣】

【栄養供給】

【Lantern Bearer】


 アリスの眉がわずかに動く。


 ランタンベアー。

 赤い油痕。

 マップ未登録の研究所。

 栄養を運ぶ個体。


 断片が、ゆっくりと繋がっていく。


 けれど、まだ足りない。


 画面の下部には、さらに別の文字列があった。


【T■■■■■■】


 文字化けしている。

 ほとんど読めない。


 けれど、アリスはその欠けた文字列から目を離せなかった。


 捕食。

 模倣。

 栄養供給。

 そして、読めない何か。


 あの個体は、ただの特殊エネミーではない。

 少なくとも、そう考えるべきだった。


 アリスは画面を切り替える。


 ゲーム内掲示板。

 新規スレッド作成。


 投稿画面の白い光が、アリスの顔を照らしていた。


 投稿者名。

 添付ログ。

 座標情報。


 アリスは、そこに指を置いたまま、しばらく動かなかった。


 情報を出しすぎれば、興味本位で向かう者が出る。

 情報を伏せすぎれば、誰にも信じられない。


 真実を、すべて書く必要はない。


 それから、ゆっくりと文字を入力する。


【注意喚起:未登録研究所内の捕食個体について】


 アリスは投稿内容を確認し、送信ボタンに触れた。


【投稿が完了しました】


 アリスは、しばらく消えた画面を見つめてから、静かに端末を閉じた。


 ARCADIAは、まだ生まれたばかりだった。


 拠点もない。

 実績もない。

 名前だけの小さなクラン。


 けれど、その最初の夜。

 誰かを守るための言葉が、ひとつ、掲示板に置かれた。


 それが誰に届くのか。

 誰に笑われるのか。

 誰を救うのか。


 彼女たちは、まだ知らない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ